『DRAGONBALL EVOLUTION』サウンドトラック すでにノベライズを読んでいたのであらすじは本編を見る前に知っていた。高校生悟空の物語として始まる導入部はチチ=MJと『スパイダーマン』(要するに『1』)を思わせるが、展開部で『スター・ウォーズ』(いわゆる『エピソード4』あるいは『新たなる希望』)となる。つまり孫悟空=ルーク・スカイウォーカー、孫悟飯=オーウェンおじさん、ピッコロ大魔王=ダース・ベイダーとなる(I'm your fatherもどきもある)。だからヤムチャ=ハン・ソロで力より乗り物担当となり、穴に落ちるのも必然なのだ。そしてオチは『ハルク』(どちらかというと 2008年版)で、内面との闘いになる。そして最後はエンドレスのアメリカン・コミック映画エンディングというのが簡単な映画のあらすじだ。 そして映画全体としては話がおかしいというよりは基本コンセプトがはっきりとしていなく、関係者のほとんどが『ドラゴンボール』映画化のコンセプト(というものがあるとして)を理解していないようだ。スタッフを聞いて不安になった人を見返してやれと気持ちも起こさずに軽い気持ちで作ったとしか思えない。ドラゴンボールが簡単に見つかるのは一本の映画だから仕方ないとして、悪役のピッコロの位置付けがされていないので、話に奥行きが生まれていない。悟空が高校生なのは構わないが性格設定に問題があり、チチとの関係も余計なものが多すぎる(ラブストーリーはおまけでいい)。ヤムチャが武道家ではないので悟空の強さが分かりにくいという具合にキャラクターに問題がある。亀仙人は漫画のイメージとは違うが設定自体に無理はない。それでも漫画と違う個性は出せていない、というか単なる笑顔の多いチョウ・ユンファだ。ブルマはキャラクターには問題がないが大企業社長の娘で天才科学者という感じはしない。亀仙人がブルマの身体に触れるのはほんの少し。 アクションと映像に関しては早すぎるカメラワークだったり、カメラに近すぎて何をやっているか分からないアクションだったりしないのは好感が持てる。しかし人の顔を殴るときに拳が顔にぬめり込むようなスローモーション映像が多用は新鮮さがない。最初の悟飯との修行や同級生との対決のアクションからして見せ方がうまくなく退屈だ。一番いいアクションがチチ対チチ(チチ対マイ)というのは寂しいではないか。ピッコロの残虐性も描いていないので悟空のピッコロに対する思いも伝わらない、やはり武道を学ぶ友人を出しておいて彼がピッコロに殺されるなどしないとそのあたりがうまく伝わらない。 先にノベライズを読んでから見て思ったことだが、この映画は説明すべきところを省いて早く進めようとする箇所が多々ある。一番分かりやすいのがピッコロの作った生物を利用してドラゴンボールを取りにゆく場面だ。ナレーションや登場人物のセリフによる説明過多な映画というのも困るが、こういった映画もまた困る。また『ドラゴンボール』と言えば空中での殴りあいという印象があるが、これは『マトリックス レボリューションズ』で飽きるほど見せてくれた。これと比べると最後のピッコロとの対決は単純に劣るだけでなく、演出にためがなくあっさりしている。せめてピッコロに「まさか、お前にそこまでの力があるはずなどないはずだ!」等のセリフを言わせても良かったと思うくらいだ。かなり漫画的だがいいではないか。 全体的には『スター・ウォーズ』に『ハルク』(巨大化しても服が破けない)というアウトラインそれ自体は悪くないと思うが、肉付けが物足りない。アジア的価値観が地球を救うというのはこの映画の特徴としてほめてもいいが、日本人が悪なのは原作国の扱いとしてはどうしたものか。ピッコロを基準に色調を決めているのか色が灰色っぽいのは残念、メキシコの砂の色がそれに拍車をかけているようだ。 エミー・ロッサムの映画としてはなにしろ衣装が一つのみで、それもすぐに汚れてしまうので楽しめない。本編よりポスターの方が格好いい。本格的アクションをやったのは良かったかもしれない。駄作にも出演してこそ一流女優への道だ。 (2009年04月27日。元となったブログの更新日:2009年03月10日、03月29日) 『DRAGONBALL EVOLUTION』は日本漫画が原作だが、アメリカでアニメ放映されていたときには亀仙人がマスター・ロッシになっていたのとは、逆にかめはめ波がそのままなのは有名だ。「カメハメハ」はハワイの王様の名前だが「亀・ハメ・波」という日本語の響きをそのまま取り入れていてそこが変でいい。マフーバ、オオザルも同様だ。 さて悟空たちが住んでいるのは架空の町だろうが学校では英語、漢字、スペイン語の表示がある。ロケ地等を考えてアメリカ西海岸からメキシコと仮定してみよう。悟空と祖父の悟飯は町外れの一軒家に住んでいる。悟飯はこの地に何年住んでいるかは知らないが英語の発音はきれいではない。住んでいる所といい町の住民からは変人扱いをされているだろう。そう考えると悟空の学校でのいじめられた理由も見えてくる(悟空の英語はまともなのだが)。これに対してチチの外見はアジア系だが町の中心部に住み人気者である。少なくてもアメリカに馴染んでいる世代である。ちなみにノベライズでは姓はマクロバーツとなっており、母親がアジア系という設定なのかもしれない。ヤムチャを演じるジュン・パークの英語が下手というより演技が怪しいので、ヤムチャは外国から来た人間のようにも感じられる。また田村英里子(クレジットではEriko)には日本語と英語で片言程度しかセリフがなく、マイはこの手の映画ではよくあるボスのお気に入りのある謎の女という役割だと分かる。さらに亀仙人の英語は悟飯ほどではないにしてもアジア人としての英語ということになる。彼の役割は主人公のいる世界の外から新たな価値観を教えるというものである(もっとも悟空自体が元々異星人なのだが)。このような世界では悟空がスーパーサイヤ人に変身する(金髪になる)というのはありえない。この映画ではアジア的価値観が地球を救うのだ。
ピッコロ大魔王の問題点
脚本家組合ストライキ中に映画撮影が始まったこの『DRAGONBALL EVOLUTION』、ストライキ中でも大丈夫な理由は知らないが考えられそうなのは(1)以前からある古い脚本を使用(2)組合とは無関係の人物を雇うの二つ。さてこの脚本というか設定のおかしい点を見てみよう。オープニングで 2000年前のピッコロによる侵略とそれを防ごうとする老師たちとの攻防が説明される(この2000年というのがまた中途半端で、ほとんどの人々が忘れ去る神話になるには新し過ぎる)。このパートは『ロード・オブ・ザ・リング』を参考にしたのだろうが、あれが古い歴史から現時点の指輪所有者まできれいにつながっていたのに対して、こちらは昔の話をしただけで今につながっていないのでドラゴンボールの存在意義が説明されずに終わってしまっている。 この映画で一番問題なのはピッコロの復活の過程が一切描かれないことにある。本来ならオープニングはこちらを持ってきて地球の危機を表現し、2000年前の話は中盤に亀仙人がすれば十分なはずだ。復活の様子がないことで物語上におけるピッコロの位置付けがされない。画面に初登場したピッコロは日本らしき土地を簡単に破壊し、ドラゴンボールを手に入れる(この場所は近代都市が近くに見えるのに破壊されたときには江戸時代の集落跡のようになるというのもおかしい)。オープニングの説明ではまるでピッコロは司令官で現場担当はオオザルのようだが、復活したときのピッコロは湖を簡単に干上がらせるなど十分に強力で、オオザルも必要ないように見え、ドラゴンボールを欲しがる理由すら不明となっている。 ピッコロとオオザルの関係で言えば2000年封印されていたピッコロがどうして地球に来て約20年のオオザルの存在を知っているのは謎だ。好意的に解釈すればナメック星人とサイヤ人はテレパシーでやり取りができて、地球に来ることになるサイヤ人はすべて名前がカカロットなのだろう。だとしてもピッコロの復活とサイヤ人がオオザルになる時期が一致するのは偶然にしてはできすぎている、一体サイヤ人は何年ごとに地球に送られているのだろう? ではピッコロを復活されたのは誰かというとマイしかいない。田村英里子のインタビューによるとマイは異星人だそうだ。ナメック星人が地球で封印されていることを知っていて、英語も日本語も話すことができ、血を手に入れるとその人物に変身できる異星人、確かに部下としては有能だ。 結局ピッコロがドラゴンボールを欲しがる理由が、原作のように若さを取り戻すというのならまだ納得するのだが、地球への復讐という漠然としたものしか示されていないために(文字通り地球を破壊したいなら話は別だが)物語の中心設定がなくなっている。ただしオオザルとの関係というのは映画ならではの設定で面白いかもしれない。 高校生悟空とチチ
『ドラゴンボール』を映画化にするにあたって原作のまま悟空が子供だと色々と面倒なので少し年齢を上げることは必ずしも間違っていない。中学生では中途半端だろうから(ジャスティン・チャットウィンはそこまで幼く見えないが)高校生にするのもいいだろう。しかし高校生にしためにありがちな学園物と大して変わらない設定となり、悟空をいじめられっ子にしているのも失敗している。せめて学園生活とは距離を置く一匹狼にしないとだめだ。この設定がチチとの関係にも響いてくる。悟空がチチに密かに憧れているなんていうのは論外で、悟空は武道>チチでなければならいし、チチに関するパートはすべて削ったほうがいいくらいだ。チチと悟空の関係にしても武道によって細い糸でつながっているべきだろう。チチは無理やり悟飯に武道を教えてもらっていて、悟空は憧れの人であり、いつか勝負したいと思っていた程度で十分だ。この物語では悟飯に育てられた外見が西洋人の悟空と、外見はアジア人ながら人気者のチチという対比がなされているのは重要なのだが、それを生かすためにはチチが自分の中のアジアに目覚めて、悟空へと歩み寄ってゆく必要がある。ところが映画ではチチに憧れる悟空という設定で、恥ずかしいほどの悟空の妄想シーンまである。この設定で良かったのは悟空がチチの家を訪れる口実が出来たことくらいだ。 ノベライズ小説というのはあくまでも参考にしかならないが、比べてみると映画の状況説明不足と必要以上に早い展開が目立つ。中盤でヤムチャの罠にはまって穴に落ち、その後にヤムチャと一緒に旅することが決まったときにレーダーにドラゴンボールが反応し、ドリルで掘るとなぜか火口があり、ドラゴンボールがマグマの中にある。そこがどういう地形なのかぜひ説明して欲しい(ノベライズでは穴のドラゴンボールと火口のドラゴンボールは別のものであるので、まだ筋が通っている)。 火口にあるドラゴンボールを取りに行くとピッコロが自らの血から作った生物(ノベライズではフーラムと呼ばれている)を使って、悟空たちを妨害する。この生物は体を切られても再生するが、それを知っている亀仙人は傷つけないでマグマの中に放り込むが、悟空は彼らをやっつけて数を増やしてからマグマに放り込む。死体を橋代わりに使うためだ。映画ではこれらがセリフであまり説明されることもなく悟空の動きのみで示され、なにをやっているかよく分からない。 『ドラゴンボール』と言えば修行とバトルだ。亀仙人との修行は始めのうちは良かったが、最後には自主トレーニングになってしまい、ご丁寧にまたチチが係わる。バトル面では互いを認識する前の亀仙人との闘いは修行のようであまり盛り上がらない。また強い敵をぶちのめすという行為をせずにピッコロ戦になってしまい、ピッコロとの対決が生死をかけた闘いという重みがない。 映画全体としては演出にタメというものがなく、大きな出来事もさらりと過ぎてゆく。これはラストバトルにも言える。悟空がオオザルになって亀仙人を殺し、その後に心の声を聞いて人間の姿に戻り、ピッコロと再び対峙するが、カメハメ波を撃ってピッコロに勝つ。二人の戦いに攻防と言えるものはなく、単に人間に戻ってカメハメ波を放ったら勝っただけだ。ピッコロはオオザルが人間に戻って驚いているが、やられそうになってマンガ的に「まさか!」というセリフがあってもいいくらいだ(ノベライズでは如意棒などを使い、ピッコロとの戦いも一進一退がある)。 90分に満たない上映時間を考えればどうしてこんなに急ぐ必要があるのかは謎だ。例えば『ポセイドン』なら時間を短くして沈没という危機を擬似体験させる意味がある。ところがこの『DRAGONBALL EVOLUTION』は地球滅亡という大問題に対して局地的にちょこちょことやっているだけなのだ。ためがないので物語に山すら作れていない。これがティーン向けだから短くしようと考えるならばこどもをバカにしている話だ。 (2009年04月27日。元となったブログの更新日:2009年03月15日、03月24日、04月13日) |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||