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2011年のトップ10
  1. イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ
  2. イリュージョニスト
  3. ザ・タウン
  4. 127時間
  5. 灼熱の魂
  6. 猿の惑星:創世記(ジェネシス)
  7. メアリー&マックス
  8. ブルーバレンタイン
  9. 宇宙人ポール
  10. ツリー・オブ・ライフ

今年は賞レース関係作品からして悪くないけど、それほどでもないという作品が続いた、ずばり言うと不作の年。個人的には『ザ・タウン』一押しなのだが、これとてトップにするには弱い。アニメにしようかと思っていたが、バンクシーの映画があるのを忘れていた。11本以外では『ミッション:8ミニッツ』『ファンタスティック Mr.FOX』『ゲンスブールと女たち』『ランゴ』『マネーボール』も良かった。アニメーションが救ってくれた年。

主演助演を問わない俳優賞、ベスト男優はライアン・ゴズリング、シリアスな『ブルーバレンタイン』、ファニーな『ラブ・アゲイン』のどちらも良かった。2012年にも日本公開待機があるからと言って待っていると後悔するので今のうちに入れておく。

ベスト女優はこれだという人がいなかったので好みでローズ・バーン(『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』、『インシディアス』)、『ザ・タウン』でのレベッカ・ホールも捨てがたい。

10位は『ソーシャル・ネットワーク』と迷った。かつて「エディット・ピアフが歌えば電話帳でも泣くだろう」と言われたが、今やデヴィッド・フィンチャーはそのレベル!でも所詮は電話帳並の話が基なので限界がある。2011年の10位としては『ツリー・オブ・ライフ』の方が収まりがいい。よって『ソーシャル・ネットワーク』は圏外。

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 前半はバンクシー監督による現代アート講座。後半が実践編で、素人をアーティストに仕立て上げる。現代アートは評価の基準があいまいで、そこに振り回される人を茶化すことでアートになるとは! *

イリュージョニスト アニメーションの表現においてまだまだ挑戦すべき領域があると教えてくれた一本。まず背景が素晴らしい。ジャック・タチが残した幻の脚本を基にしているのでやや湿っぽい部分もあるが少女と老人による一夏ものとして見れば王道。セリフはほとんどないので細かい演出で画面を賑わせてくれる。「ベルヴィル・ランデブー」と比べると音楽にやや不満がある。*

ザ・タウン この作品で一番素晴らしいのは配役、外国資本を得るためとか事務所のバーターと思われるようなキャスティングがはびこる中で、主人公の年代に近い所から親の世代まで無駄がない。例えば仕事は出来ても私生活には綻びがあるレベッカ・ホールなど最高。クライム・アクションであってもサスペンスではないので終盤に不満を感じる人もいるようだ。

127時間 これも強力な映画だが、きつい場面があるだけに簡単にオススメできないのがなんとも残念。映画としてはダニー・ボイル技の集大成。オープニングからうるさいほどの編集、幻影表現、既出曲の効果的な使い方等々を駆使して飽きさせない(走る走るは設定上あまりなし)。

灼熱の魂 中東某国生まれでカナダで死んだ女性が背負う業。というと重く感じるが描かれる出来事は予想以上に壮絶だ。それらがテンポ良く描かれることにも驚くがそうしないとさらに重くなるのだろう。衝撃度では2011年一番。*

猿の惑星:創世記(ジェネシス) シリーズの起源を描くという難しい課題をうまくクリアした作品。地球が猿の惑星になるきっかけを人間の傲慢さ等を絡めながら描く。ここで注目したいのは目の演技主人公の父親を演じたジョン・リスゴーとCG猿の目、この二つがあるために本作は説得力を持つ。大きくなったシーザーが家の中で遊ぶ場面の動きの見事さも圧倒だ。*

メアリー&マックス クレイ・アニメーションかと軽い気持ちで見始めると驚かされる。マックスはアスペルガーなのだ。映画全体としてもコミュニケーション(不全)に関する映画になっている。良かれと思って相手にしてやることが裏目に出る場面の苦さといったらない。じつは津波の場面があって上映前に監督からのエクスキューズがあった。『ファンタスティック Mr.FOX』にも洪水場面があって、アニメーション作家には一度この世をチャラにしたいという願望がある人が少なくないのだろう。*

ブルーバレンタイン 時間軸をいじりながら夫婦の出会いから別れまでを描いた映画のように見えるが、むしろ倦怠期にどう対処するかを描いた映画だと思う。この夫婦が取った結論ははたから見れば最悪のように見えるが、最悪の中のランクではそうひどい方ではない。*

宇宙人ポール スピルバーグ・パロディというよりはサイモン・ペッグ&ニック・フロスト・ミーツ・グレッグ・モットーラ映画。オタクの成長物語をメーンに置きながら、(キリスト教原理主義者等の)嫌なアメリカ人をちゃかすところがポイント。*

ツリー・オブ・ライフ 2011年の10位に置くとなんとなく座りがいいと思う。現代のアメリカに限界を感じさせる映画というのは二つあって、それを自覚しているか、いないかが鍵となる。テレンス・マリックは限界を感じながらそこから逃れられない自分を知っている人だと思う。

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
オープニングの曲がやけに爽やか過ぎるストリート・アートのバンクシー監督ドキュメンタリー作品。公開から日が経っているのでやらせだとかフェイクだという噂は耳に入る。フェイク・ドキュメンタリーではないと思うがMR.BRAINWASHことティエリー・グエッタにお前はこの役をやり続けろと言われている気はする。

前半はバンクシーの姿を中心に彼の周辺の入門講座というべき内容。詳しくない僕のような人間にも分かりやすい。一応の主人公はビデオ撮影が趣味の在米フランス人、ティエリー・グエッタ。親戚がストリート・アーティストであった彼はバンクシーと親しくなって彼の行動を記録する。もちろんバンクシーの行為は犯罪なので映像として記録することも危険であるのだが、ティエリーという部外者が入ることによって文字通り共犯関係となる。中でも象徴的なのがディスニー・ランドでの出来事だ。

後半は文字通りバンクシーがティエリー・グエッタをプロデュース編。彼はMR.BRAINWASHと名乗りアーティスト活動をする。ここで注目すべきは今のアートはストリートでなくギャラリーにあるとバンクシーが言う点にある。ここでバンクシー自身がストリート・アートから売れるアートへとスライドしてゆく流れをハイスピードでおさらいしているのだ。それはMR.BRAINWASHの薄っぺらさや一般人のアートに対する基準のいい加減さを指摘するよりおもしろい。たしかに展覧会に出す作品もばかばかしいのにバンクシーの宣伝文句等につられて見に来る人間を笑うのは簡単だ。そんな作品を生み出すために四苦八苦するMR.BRAINWASHの様子もおかしい。しかし芸術学校卒業生以外の芸術を共通の基準を持ち込むのは不可能なのだから仕方ない。

ところでMR.BRAINWASHでも有名アーティストの手法をパクることができるコピー技術はなんと素晴らしいものか!これがあることで、我々は少しアイディアがあればパロディが出来てしまうのだから。

『イリュージョニスト』
「ベルヴィル・ランデブー」(フランス)のシルヴァン・ショメ監督新作、前作が面白かったというのはたしかなのだがデフォルメした画や音楽の印象が強すぎた気もする。今回はまず背景がすばらしい。パリを出発点として船でイギリスに渡りドーバーの白い崖からロンドン。スコットランドに行ってからは渓谷に港町、そしてエディンバラ。これらを壁紙として保存したくなるが、3枚ほどしか見つからなかった。その美しい風景を引きの画の数々は構図も見事で引き込まれる。人物描写についてもオペラ歌手などは前作の雰囲気を引き継いでいるが、基本的にはまともなデザインなのでとっつきやすいはずだ。その分アクは弱くなるが、これはこれで良い。

一応ジャック・タチが残した幻の脚本を基にしていている。主人公の手品師の名前はタチシェフなのだし芸風も意識しているのだが、年寄りと子供(今作では若い娘のアリス)がひと時を過ごすという意味では王道のパターンなので安心して見ることができる。そこがしっかりしているからこそ、手品師がやや古臭いマジックをしているという描写、脇役やウサギの細かい動き、無生物への細かい演出などをたんのうできる。

前作も無声映画的だったが、近作もセリフは少なくパントマイム的だ。今回エディンバラが舞台となったのは前作のプロモーションで訪れたからだそうだが、フランスを飛び出て英語圏が舞台になった。これにより時おり聞こえる英語のセリフがノイズに感じられてしまうのは残念。アリス自体もほとんど喋らないので気になってしまう。

監督が手掛ける音楽に関してはやや不満。タチシェフと同じくミュージック・ホール(ライブハウスというよりは日本流にいえば演劇場)に立つバンドのサウンドはビートルズのパロディというよりはプレスリー・フォロワーなのだが、その音はさすがに前作のジャンゴ的ジプシー・スウィングほどにはマッチしていない。とはいっても年代からするとだいたい10年後くらいなのだ。時代の流れは早い。それらがかもし出す悲しい空気も本作のポイントだ。あのスカート男とバンドのボーカルは親戚だよなという楽しみも出来る。

『灼熱の魂』
予告を見て濃い映画だろうと予想していたが、実際に見ると予想以上だった。舞台の映画化だが、そうした匂いはあまり感じないが、タイトルが出て場面が次々に変わる様子は舞台劇らしいと言えるかもしれない。この手法によってテキパキと話が進むので大きな出来事もあっさりと描かれている(余韻がないと思う人もいそうだ)。ヒロインが地元→都市→南部地方という移動もスムースだ。

全体としては死んだ人間が生きている人間を動かすという僕の好きなパターン。母親ナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)と双子の男女シモン(マキシム・ゴーデット)とジャンヌ(メリッサ・デゾルモー=プーラン)が現代のカナダにいる。母親は遺言として子供たちに父と兄を捜すように言う。母親は公証人の手伝いをしていた。この他人の人生を見つめる仕事をしていたのは重要だ。娘が数学者というのも後で効いてくる。

オープニングからBGMにレディオヘッドが流れ、悲しそうな顔をした少年が髪を剃られて少年兵にさせられる。どの時代のどこの話かはすぐに分からないようにしてあるが、キリスト教とイスラム教の対立があることから(名指しはしないが)「戦場でワルツを」でおなじみのレバノンが舞台だと分かる。やがてヒロインのナワル・マルワンと恋人が登場、ふたりの宗教が違うことから別れさせられる。ナワルは出産するが息子とは引き裂かれ、都会の大学に通う。大学では新聞を作るという政治意識の高い所を見せる。そこに軍がやってきて大学は封鎖される。彼女自身がキリスト教徒なのでこれには困ってしまう。彼女はこのときがチャンスと息子の行方を捜しに行くが、孤児院は襲撃されていて捜索は挫折してしまう。このパートでこの国の宗教対立の深刻さを伝える。

こうした辛い現実の中でナワルは転向してしまう。この展開が安易で早すぎると思う人もいるだろうが(あんなことをした人が外国に移住し、ふつうの仕事ができるのだろうか?政治亡命扱いにも限界はあるはず)、映画を見ている間はテンポ良く進むので気にならない。そしてこの早さこそが、この悲劇の元凶である宗教対立のばかばかしさをうまく伝えていると思う。そしてその後の人生は悲劇の連続となる。

兄と父を捜せと言われて乗り気なのは姉のジャンヌで、すぐに母親の母国に飛ぶ。このへんはやはり母性を持つものということか、そんな彼女も母親のたどった人生と自分たちの出生の秘密を知って打ちのめされることになる。

始めはしぶしぶだった弟のシモンが怖い人たちに連れられて(目隠しもさせられる!)街の顔役のところに連れて行かれる。この場面は一種の通過儀礼となっていて、弟は姉と差を一気に埋めると同時に姉も知らなかった母親最大の秘密を知り受け入れることで(少なくても映画の中では次の重要な仕事が出来るくらいには)成長している。

俳優ではある種狂信的な行動ともいえる母親を演じるルブナ・アザバル、冷静であろうとしてもそうはいかなくなる娘のメリッサ・デゾルモー=プーランがやはり強力だ。

『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』
まいどおなじみの「猿の惑星」最新作。ティム・バートン版はないことにして、オリジナルのシリーズにつながる前日談となっている。といっても僕のように一作目の印象しかない(あるいは見ていない)人も多いのではないだろうか。そのへんが「スター・ウォーズ」あたりとは違うはず。メークだった猿もCGになり、いきなり目を印象的に見せる。モーション・キャプチャーを使っているとはいえかなりの自信だ。主人公のシーザーの母親から受け継いだも目が特徴。大きくなったシーザーが家の中で遊ぶ場面は長回し、CGなのだからカット割らずにいくらでもできるとはいえ素晴らしく、酔いそうになる(ほめている)。苦痛しかもたらさなかった「トランスフォーマー」のCG活躍場面とは大違いだ。シーザーの中にいるのは「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムことアンディ・サーキス、「キング・コング」での猿研究が役に立っているはず。

トラブルを起こしたシーザーは人間と暮らせなくなり霊長類保護施設に入ってからは自分が人間でないことに苦悩し、猿の世界を作ろうとする。ここで彼の前に立ちはだかるのが施設の飼育員ドッジ、演じるのは「ハリー・ポッター」シリーズのドラコことトム・フェルトン、やっていることはあれと同じ敵役だ。このハリー・ポッター俳優は最初にシーザーに殺されなくてはならない。どのように処理するかと思っていたら半分は自業自得といった形にしたのはうまい。

ウィル(ジェームズ・フランコ)や製薬会社社員人の行き過ぎや倫理観の欠如が旧シリーズにあった人種問題等のメタファーの代わりになったとは感じない。未来は猿の惑星になるのだから、それは仕方ないのだ。またウィルの行動は、幼いときのシーザーとの付き合い方(飼い方or暮らし方)など悪い点が色々あるので、そこが気になる人もいるだろう。ここで出てくるのがウィルの父親に対する思いの強さだ。父親のアルツハイマー治療のためにはむちゃなこともする。それに説得力を持たせるのが父親を演じるジョン・リスゴーの演技だ。とくに目の演技が素晴らしい。またそれはシーザーたちのそれと対比されることで作品に深みをもたらしている。

この映画は橋がうまく使われている。森から見る橋、そして橋での攻防戦。後者はもちろんCGだが猿たちの連係プレイがおもしろく見ていて飽きない。しかしオラウータンのうんていは何人か落ちているのではといらない心配をしてしまう。

『メアリー&マックス』
クレイ・アニメーションだというので「ウォレスとグルミット」みたいなものかと思ったら、どこからかもっと暗いものだとの情報が入ったので気にかかり、予備知識なしに見ることにした。内容はなんとコミュニケーション不全についての話だったのだ。これをアニメでやるのは凄いと取るか、アニメだからできたのだと取るかは難しいが、どうやらこれがダム・エリオット監督の作風らしい。

物語はオーストラリアにいる少女メアリーとニューヨークにいるおじさんマックスとの文通の記録で、メアリーは顔のあざを気にしている。友だちがほしい彼女は勉強も兼ねて見知らぬニューヨークの住民マックスに手紙を出し始める。そしてこのマックスがアスペルガーなのだ。考えすぎるとパニックを起こしてしまうなど、感情がうまく出せないことや他人の感情が読めないことなど彼の視点で描かれるのが興味深い。二人は手紙による会話をすることで少しずつ変わってゆく。オーストラリアは埃っぽい茶色をベースに、ニューヨークは灰色をベースに赤がアクセントとして入る(さらにそこにチョコレートが加わる)。

やがて成長したメアリーはコンプレックスのもとを取り除き、大学ではアスペルガーの研究をするのだが、それが元で二人の関係が悪くなる。良かれと思ってしたことが不幸を招く。これがコミュニケーションの難しさがある。心を閉ざしている人に対して無理やりこじ開けようとしてはだめなのだ。といってもどう接したらいいか決まった答えがあるわけではない。解き方に決まりがない問題なのである。声の担当はトニ・コレットとフィリップ・シーモア・ホフマンだが幼いメアリー担当の方が印象的。ラストでは映画を見た全員がマックス最高の表情が見たのだと思いたい。

『ブルーバレンタイン』
「(500)日のサマー」は恋人になる少し前から別れた少し後まで時間軸をシャッフルして描いた映画だった。その方法論でよく分かったのは恋愛関係においていかに誤解が多いかということだ。自分が思うほどには相手は思ってくれていないこともしばしばだ。この「ブルーバレンタイン」は結婚という契約がなされた数年後に壊れて行った関係を描く、初めから相性が悪かったのか、途中でおかしくなったのか、中間部は省略されているし簡単に結論が出る問題でもない。この映画が「サマー」と違うのは現在と過去が交互して描かれるが、時間の流れは一定していること。切り替えは唐突に行われるが「サマー」のように日数が出ることはない。それでも二人の外見が変化しているので迷うことはない。二人とも5〜7年の時間経過を表現するために体型を変えているが、どちらかというとミシェル・ウィリアムズ演じるシンディの変化より髪も抜いたというライアン・ゴズリング演じるディーンの変化の方が大きいのでそちらに注目すれば迷うことも少ないはず。登場人物は少ないが、嫌なレスリング部員は「ポセイドン」のマイク・ヴォーゲル、クレジットを見るまで気付かなかった。

夫婦のどちらが悪いのか、表面的には夫の方が悪い。今の仕事を続けて愛する家族があればよく、向上心も無い。ダメ亭主の出来上がりだ。それが許されるのは妻が子供と結婚に対して引け目を感じているからだ。さらに一見良妻賢母に見えるシンディも問題のある家族(両親)を抱えていて不安定な時期が長かったことが過去パートから分かる。ここでずるいと思うのは現在で上司の医師と浮気でもしていればそういった雰囲気を感じるのだが、それがないことだ。

俳優二人のアプローチは化粧っ気、体重などで過去と現在に差をつけている。ディーンはデレク・シアンフランス監督の外見と似ているとパンフレットにあるが、むしろちょっと危ない人に見える方が重要だと思う。つまりは周りが見えない人間という描写なのだ。肉体労働者と高嶺の花という組み合わせはライアン・ゴズリングの出世作「きみに読む物語」と同じで、とうぜん意識してやっている。一応シンディはディーンに向上心を持てと言うが、彼は妻を怒らせるような失敗(何度も飲みすぎて警察の世話になる等)をやらかさない。これはずるい。こうしてぬるい生活を続けて行くのだが、最後の最後でやらかす。

対するミシェル・ウィリアムズは現在をすっぴんに近く、過去をそれなりにメイクとしている。きつい言い方をすると大学生を演じるのはさすがに無理があるのだが、必要以上に若作りをしないでよかったと思し、そこは役者のがんばりで映画を見ている間は気にならない。

一見凝った作りに見えるため、計算高い作品に見えるかもしれないがもっとプライベートな作品だと思う。だから監督がこれ以上のものを作れなくても驚かない。これで十分にきつい話だが人が死ぬわけではない。たしかに最悪な結末だが、最悪の中の最悪ではない。多分接近禁止命令は出ないだろうし、ディーンは子供にも会えるだろう。復縁の可能性はほとんどないが、これ以上関係が悪くなることもなく、二人は良かったころの記憶を大切にしながら生きることができるのだ。

『宇宙人ポール』
サイモン・ペッグ&ニック・フロスト・ミーツ・グレッグ・モットーラ(「スーパーバッド」)。見た直後は狭い空間の話が得意な人たちが作っただけあって、ロード・ムービーとの相性がイマイチと思った。なにせ風景が変わらないのだ(それもまたアメリカ)。しかししばらく経つとそんな広いアメリカを狭い空間として切り取ったと解釈するようになり見方が180度変わった。それでも最初にイギリスとアメリカの対比はあった方が分かりやすかったと思う。

イギリス人の二人、SF作家のクライブ(ニック・フロス)とイラストレーターのグレアム(サイモン・ペッグ)がサンディエゴ・コミコン(前にも紹介したようにコミック・コンベンションというだけでなく娯楽作品の一大見本市になっている)に参加し、コスプレイヤーや作家の姿に大喜びするところから映画は始まる。それが終わるとキャンピングカーでUFO関連名所巡りに行く(大きな流れで見れば一夜ものの映画だ)。

ここに登場するアメリカ人は保守的で、男二人旅に文句をつける嫌な人たちだ。ここに本物の宇宙人ポールが合流。このポールの性格はフランクなアメリカ人で、嫌なアメリカ人ばかりに会ってきた二人には身近に感じる存在となっている。声の出演セス・ローゲン(もちろん「スーパーバッド」にも出演)が素晴らしい。「カンフーパンダ2」のときにも感じたがローゲンは声に存在感があるし、ギャグもうまい。メイキングによるとモーションキャプチャーとアフレコを何度か繰り返しているので、彼の味もよく出ている。

ここからは50年前に地球に不時着して、今日まで密かにアメリカ政府に匿われていたポールをめぐる「未知との遭遇」パロディとなる。同作を知らなくても楽しめるが最後のあれの形だけは知っておいた方がいい。スピルバーグは意外な形、しかもギャグで登場する。

逃げてきたポールを追う人も重要だ。一番偉そうな人にジェイソン・ベイトマン、ということはこの人が優秀なわけがない。二人いる下っ端は一人は「スーパーバッド」のビル・ヘイダー、彼の相棒のジョー・ロー・トルグリオは警官役を得意している俳優のようなのでそれを知っていればより楽しめるはずだ。「スーパーバッド」を見ていればこの連中がドタバタ騒ぎをすることは予想がつく。さらにポールを見てしまったために旅に同行することになる女性ルース(クリスティン・ウィグ)、彼女がいるために二人の関係が少し悪くなるの「スーパーバッド」と同じだ。彼女がポールを認めざる負えなくなる展開はキリスト教原理主義者たちをちゃかしている。なにせ目の前に神の創造物とは思えないポールが奇蹟を起こすのだから。その意味ではクリスマス近くに見られて良かった。そうしてポールの能力を使いながら危機を回避して話をうまく転がしてくれる。ベテラン女優二人を出して、飽きせさずに走りきってくれるなど演出もうまくて楽しめる。



2010年のトップ10
  1. マイレージ、マイライフ
  2. 第9地区
  3. フローズン・リバー
  4. キック・アス
  5. ハングオーバー 消えた花ムコと史上最悪の二日酔
  6. パリ20区、僕たちのクラス
  7. トイ・ストーリー3
  8. ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女
  9. コララインとボタンの魔女
  10. カラフル

並べてみると2009年に続いて後半が弱かったようだ。前半は強い女の映画が印象に残っている。またロマコメはなし。『息もできない』『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』『アウトレイジ』とアジアの映画は10本には入れられなかったが悪くなかった。ヨーロッパはこんなものか。10本以外では『プレシャス』『アリス・イン・ワンダーランド』『告白』『インセプション』などは他の人と色々と語れると言う意味では大切な映画…と言う昨年と同じような感想になってしまった。

主演助演を問わない俳優賞はベスト男優はジョージ・クルーニー、『マイレージ、マイライフ』だけでも決定。ベスト女優はノオミ・ラパス、『ミレニアム』で良かったのは1作目だけだが彼女の存在感は3作とも強烈だったと言うことだ。若手部門はクロエ・グレース・モレッツで文句なし、ただし個人的に『(500)日のサマー』は語りにくい映画でもある。

マイレージ、マイライフ ジェイソン・ライトマン監督はエッジのある題材がお得意だと思っていたらオーソドックス面を見せた一本。常連のジェイソン・ベイトマンにヒゲを生やせ、ジョージ・クルーニーの上司に、曲者ダニー・マクブライド、反則技ザック・ガリフィナーキス等を脇にすえた配役も良い。今度15年位はこの人がいればアメリカ映画は安泰か。*

第9地区 エイリアンがアメリカでもヨーロッパでもなく南アフリカに飛来するという意外さに、そのエイリアンを目一杯汚く描いた前半のモキュメンタリー・パート。そのエイリアンを非人道的に扱う主人公がエイリアン化する後半は差別する方からされる方へとするりと変わるのがお見事。とアクション映画としての面白さも満点。*

フローズン・リバー 10本の中では一番シリアスな映画。ファースト・ショットからヒロインが置かれた厳しい立場がわかる。そこに第二のヒロインと言うべき先住民の女性が出てきて、二人が非合法な仕事を始める。タイトル通りの寒々とした風景、犯罪行為をしなければならない状況と、それを否定しようとする気持ちがうまく混ざり合う佳作。*

キック・アス 純粋な(?)娯楽作が少ないこの中では異色のヒーローもの。正確にはそのパロディになるが、良いパロディは良い批評になるという典型だ。なんと言っても特殊能力を持たないキック・アスの傷だらけの姿が印象に残る。反対に能力があり過ぎのヒット・ガール、彼女が持つ残虐性と(少年兵に通じる)父親からの洗脳の悲劇性の対比は考えさせられるが、アクションの前にそれを忘れる瞬間もある。

ハングオーバー 消えた花ムコと史上最悪の二日酔 伏線を回収する、広げた風呂敷を畳むと言う言い方がある。それに意識が行き過ぎて失敗している映画も多い。それを回避するためにこの映画が取った方法とは伏線をほとんど配置しないことだった。これはコロンブスの卵だった。振り返る必要がないのでどんな方向へも進むことが可能なのだ。こうなるとマイク・タイソンを含む反則技的濃いキャラクターがいても成り立つのだ。*

パリ20区、僕たちのクラス アイデンティティーとはいつ意識されるのか、個性とはなにか等を考えさせられえる一本。個人的にはワールド・カップ南アフリカ大会でフランス代表が崩壊した過程の裏側を追体験するような感じで見ていた。アジア、アフリカ、カリブが集まれば簡単に行く分けない。でも最後には生徒の成長と希望も少し見せる。*

トイ・ストーリー3 いつものピクサー・クオリティーと言ってしまうのは簡単なこと、ましてや「トイ・ストーリー」の主人公と同じように成長してきたような人間ではない。そんな人間を黙らせるコレしかないというシリーズの締め方だ(と書くと嫌味に聞こえるがそうでもない、ただ順位には反映させている)。*

ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女 日本で2009年話題になったスウェーデンのミステリーを本国での映画化。小説ほどには盛り上がらなかったのは残念品。少女にしか見えないというのはさすがに無理だが、ゴス衣装に身を固めた変人のリスベットは魅力的で、北欧の雰囲気も楽しめた。もちろんカットした部分や変更点も多いがミカエルがプレイボーイぶりがさほどではないのが不満なので、フィンチャー版のダニエル・クレイグに期待しよう。*

コララインとボタンの魔女 ヘンリー・セリックによる執念のストップ・モーション・アニメーション。ヒロインのコララインが裏の世界に迷い込む展開はアリスの変奏曲だが、ビザールな世界観やワイビーの存在など、セリックと縁も縁もあるバートン版『アリス』より出来が良い。*

カラフル 小学生の『河童のクゥと夏休み』から中学生の『カラフル』へ、年相応の問題を抱える主人公。悲しみは喜びの序奏曲であり、その逆も成り立つ。この物語は悲しみから始まる。それは喜びをうまく描くための方法論だ。男の吹替はイマイチだったが、女はびっくりの南明奈をはじめ、どれも良かったことも特筆もの。

『マイレージ、マイライフ』
ジェイソン・ライトマン監督は挑戦者である。前作「JUNO」は主演のエレン・ペイジ、脚本のディアブロ・コディと女性的な視点が注目された。例えば養子を受け入れようとする夫妻で、夢を捨てきれないオタク気質のCM作曲家夫(ジェイソン・ベイトマン)を批判する視点はディアブロ・コディであり、完璧であろうとしすぎる妻を批判する視点は監督のものだと思っていた。それ自体に間違いはないのだろうが、監督も自分より一世代上のオタク世代に対する批判しているのは今作でも感じることができた。それを映画界に置き換えればクエンティン・タランティーノとなる。本作と「イングロリアス・バスターズ」をアカデミー賞のノミネートされた部門を見てみる。作品、監督、脚本(脚色)、助演が共通している。主演は「マイレージ・マイライフ」のみ。結果として「イングロリアス・バスターズ」は監督が助演男優に思い入れ過ぎてしまったために他が留守になり、主役は?本来の目的は?という映画になってしまったことを証明している。

「JUNO」では大人びた少女ジュノと大人になりきれない大人のCM作曲家という対比が分かりやすかった。そして今回それに対応するのは主人公ライアン・ビンガム、彼を演じるのは「フロム・ダスク・ティル・ドーン」でクエンティン・タランティーノと共演しているジョージ・クルーニー。本人も結婚しない男を地で行く男である。つまりライアンは監督が嫌いなタイプの男だ。その彼をどう輝かせるかが脚本家/監督ジェイソン・ライトマンの腕の見せ所になっている。物語にはライアンの価値観をひっくり返すような人間は出てこない。彼と係わる女性、ひとりは女ライアン・ビンガムのようなアレックス(ヴェラ・ファーミガ)であり、もうひとりはネットを通じての解雇システムを提案するようにコミュニケーションに関してはドライであっても恋愛観は古いナタリー(アナ・ケンドリック)なのだ。

明確に示されてはいないが、この映画のジョージ・クルーニーは実年齢より若く設定されているはずだ。なぜかというと上司を演じているのがジェイソン・ベイトマンだからだ。「JUNO」のダメ男がヒゲを蓄えて貫禄を出そうとしているので、彼はライアン・ビンガムと同い年か年上と考える。俳優の生まれた年は 1961年と1969年なので劇中のふたりは65年前後の生まれだろう。ちなみに小説では35歳という設定とのこと。

リストラというライアン・ビンガムの職業が注目される作品だが、面白いのは実際にリストラされた人も出演していること。見ていると俳優との差は感じるので分かると思う。彼らの話は興味深いのだがふつうの俳優が出てくるとここで終わりだと気付いてしまうのは残念だ。

監督が主人公とは距離を置いているせいか、ライアンの家族の話でしんみりとさせるものの、彼を簡単に転向させないあたりはうまい。それでも一連の騒動でライアンはなにかを失ったことはたしかだ。1000万マイルが貯まったときのライアンの心ここにあらずという表情も忘れられないが、あそこの画もどこかぼやけたような画になっていたように記憶する。1000万マイルという話も非現実的なものとして描いているのだ。

そして最後はライアン・ビンガムの明確な行き先を見せないこの映画、これからライアンが家庭人になれるとは思えない。この世界から降りるとしても緩やかな降り方をするはずだ。あるいはい以前とは形を変えながら雲の上にいる生活を続けるのではないかと思う。それは地上に降りないという意味では緩やかな自殺とでも言うべきものなのかもしれない。

『第9地区』
これの予習のためではないが「未知との遭遇」を見たり「幼年期の終わり」を読んでいたりしていたので見終わって色々と思うところがあった。いやその前に「アバター」のことが頭をよぎった。この映画は「アバター」より脂肪分が少なくその分評価は高くなる。アメリカでは「第9地区」→「アバター」の順番で公開されたので「アバター」の脂肪分が気になる人も多かっただろう。いや「アバター」は余計な部分(CGや3D映像)が多いというより、その部分を見せたい映画なのだから話はシンプルにしている。ただ脚本家は専門家ではなくJ・キャメロン監督本人なので物語背景の描写が物足りなく話に深みがないというのは以前指摘した。実は「第9地区」もその物語背景の描写はさほどされていない。しかしそこをフェイク・ドキュメンタリー形式にして回避しているのだ。これはうまい。また「アバター」にあって「第9地区」にないのは大きい/強い女である。「第9地区」では男女関係ははふつうに夫婦関係に集約されている。「アバター」本編では描かれなかった異種間性交渉は「第9地区」で具体的には出てこないが言及はされる。

一応フェイク・ドキュメンタリーとして始まるのだが、別角度の映像が入るので全編がフェイク・ドキュメンタリーではない。オープニングで南アフリカに UFOがやって来てくるところはあっさりと紹介され、それ以後エイリアンたちが第9地区に隔離されるまでの歴史が簡単に紹介される。隔離という背景には監督の出身地南アフリカ、アパルトヘイトを意識しているわけだが、それがそのまま人間とエイリアンの関係当てはめても面白くないので、そのままというわけでもない。描写として気になったのは30年近く空に浮かんでいる母船、それだけでも凄いのだがまあいい。さらに主人公ヴィカスが軽装備で第9地区に入ること、これもそうしないと感染しないので仕方ない。

主人公ヴィカスはエイリアンの管理を任されているMNU社の社員、彼は会長だか社長の娘と結婚しているが平凡な人間だ。演じるシャルト・コプリーはティム・ロスを情けなくしたような印象を受けた。彼が第9地区から第10地区への移動計画を任される。その過程でエビと呼ばれるエイリアンの生態(卵を産むことやキャットフードが好きなことなど)が分かる。その一方で会社が秘密裏にある計画を立てていることも分かる。管理しているのが民間会社である必然性があるのかは映画からは分からないが、現実の軍産複合体を反映しているのだろう。

第9地区はスラムのメタファーであるようで、一般人とエイリアンとの接触はあまりない。とはいえ彼らは盗みや闇取引はする。その仲介者としてナイジェリア人ギャングを登場させる。彼らはギャングから猫缶を飼い、ギャングはエイリアンのDNAにしか反応しない彼らの武器を入手するだけでなく、売春(!)までしているという。ギャングは彼らのパワーをほしく、そのためには肉を食べたりもする。このギャングを中心とするスラム描写は映画「ツォツイ」を思い出した。ただ立て看板のデザインはかっこよかったりするのがこの映画のいいところだ。「ツォツイ」には車椅子生活者が出てきたが、こちらではなんとギャングのリーダー、オベサンジョーが車椅子だ。それだけに彼は力への憧れが人一倍あるの。ここで思い出すのは「アバター」の大佐だ。あれだけ力に魅せられている人間が(軍人としての意地があるとしても)アバターの力に憧れることがないのはやはりあの映画の弱点だ。

物語はエイリアン立ち退きに乗り出したヴィカスがクリストファー・ジョンソン(香港市民が英語名を持つように彼らも持つ)の家で謎の液体を浴びてしまい、彼の肉体がエイリアンに変化し始めてから(ここは「ザ・フライ」を思い出す)急展開する。片手がエイリアンになったことで彼らの武器が使えるようになると、人間兵器して会社に追われ、第9地区へ逃亡。ここでクリストファーと知り合い一緒に行動し始め、あっと驚くような展開をする。最後にはパワード・スーツまで登場、これが大暴れして楽しませてくれる。ここではスプラッター描写もあるのだが、ぐちゃっと見せないでぽーんとすっ飛ぶさまはプロデューサーであるピーター・ジャクソンのテイストに近いものがある。はじめはグロテスクに感じたエイリアンも、クリストファーと彼の息子に感情移入ができるようになるあたりは脚本もうまい。

『フローズン・リバー』
サンダンス映画祭からアカデミー賞二部門(主演女優、脚本)ノミネートにまで上り詰めたインディーズ映画。冬に走るトラックに国境の看板が出てくるオープニングに続いて主人公のレイが出てくる。彼女は母親で身体には刺青、しみ、しわがある。それは彼女のおかれた立場を雄弁に物語る。レイ役のメリッサ・レオは「21グラム」に出演していてコートニー・ハント監督はそれを見て出演を依頼したそうだが、印象はあまり残っていない。また「21グラム」といえば最近流行の偽ライ・クーダー風のサウンドが出てきたときにはいやな予感がしたが、それはほんの一瞬だったので安心した。

この主人公はもちろん貧しいが、新しいトレイラーハウスを買う準備をしていて手付金も払っていたのだが、残りの金を夫が勝手にギャンブルにつぎ込んでしまう。そのギャンブル場はモホーク族の保留地内にある。ここはニューヨーク州でもカナダ国境近くでかなり寒そうだ。それも一面の雪景色よりは車を駐車させるときのぬかるみのほうが目立ち、彼女の運転するボロ車と良く合っている、このあたりもインディーズ映画ならではだ。

ギャンブル場駐車場から夫の車に勝手に乗っていったモホークの女性ライラ(ミスティ・アッパム)を追いかけて彼女が住む小ぶりなトレイラーハウスにたどり着き車を返すように言う。宣伝用スチールに使われているレイの発砲シーンはここである。そのくらいの覚悟を持っている人間として描かれているわけだが映画全体を象徴するような場面ではない。

ここでライラはこの車はトランクが開けやすいのでアジア系移民の密入国に使えるので組んで仕事をしようという。話を総合するとカナダとアメリカにまたがる保留地内では両国の法律は適用されず。また白人が一緒にいると信用されるから、レイをさそうということのようだ。レイは家のための金がほしいし、ライラには赤ん坊がいるが夫が死んだために義母が引き取っている我が子を取り戻したい。ここで二人の利害が一致し協力することになる。

タイトルのフローズン・リバーとは文字通りショートカットのために凍った川の上を走るのだ。しかもこれが安全だという保障はないのでスピードは上げなくてはならない。この部分はサスペンス映画風で怖いが、それが前面に押し出されたりはしない。ここでライラはお金の勘定をレイに頼むが、彼女の目は悪くて働くにもマイナスで逆に言えばコンタクトやメガネを買ってもっといい仕事をして子供を取り戻そうという気概が彼女にはない。

レイは何度か仕事をした後で州警察に別件で呼び止められたりしたのでやめていたが、危険を感じながらもお金が必要なになりクリスマス・イヴにもう一仕事すると決めた。今回運ぶのはパキスタン人夫婦で、レイは預かったバッグが爆弾ではないかと疑うなどはじめから不吉な要素が一杯だった。このバッグが切っ掛けになって起こる悲劇が起こる。そしてその後に起こる奇蹟はまさにクリスマス・イヴにふさわしいものとなっている。しかし運命は悪いほうに転がり警察に追い詰められることになる。

ここでレイとライラは互いのどちらかを差し出すかという選択に迫られる。ここで出した最終結論というのがいかにも母親らしい。この映画の監督も女性なのでこれは自然な展開だと思うのだが、これは単純に"母は強し"では語られるだけのものではないように思う。ここでは二人とも赤ん坊(幼児)がいることにも注目したい。レイの息子が15歳くらいのTJだけだったら彼女はライラの気持ちを考えることができたのか?この二人を結ぶ赤ん坊(幼児)の存在があってこそ互いの立場を考えた結論が出せたのだ。

劇場はシネマライズ。上映しているだけでなく公開にも協力したことは褒められるべきだが、雪や氷をバックにするとスクリーンの汚れやたるみに気付いてしまうのは残念。もっとも夜のシーンが多いのでそれほど気にはならなかったのは救いだった。


以下ネタバレ


パキスタン人夫妻のバッグには赤ん坊が入っていた。レイとライラは引き返すと赤ん坊は息をしていなかった二人が暖めてやると生き返る。これは起きた日を考えるまでもなく、この奇蹟はキリストを模しているわけで、生誕から死、復活までを数十分で表していることになる。密入国しようとするパキスタン人夫妻はヨセフとマリア、赤ん坊の死と復活を目撃したライラとレイはマリアとなる。

息をしなくなった赤ん坊を夫婦に連れてゆくときにレイは返すときに温めてやるのが礼儀だというが、ライラはそんな必要がないという。そして生き返ったときには、ライラがこれは奇跡だというのに対してレイはたんに科学的な出来事という。直前と微妙に考え方に変化があるのが、この脚本のうまいところだ(見てから日にちが経っているがパンフ等で確認したので二人の言ったことの組み合わせはこれで合っているはず)。

『ハングオーバー 消えた花ムコと史上最悪の二日酔』
悪友たちと出かけたバチェラー・パーティに出かけたラスベガス、そこで酒とドラッグによる二日酔いで記憶が飛んでしまい部屋はめちゃくちゃ。虎はいるし、歯は欠けている。そして肝心の花婿は行方不明で、残された3人は物証を頼りに推理し、花婿を捜索する。というストーリー。この脚本が緻密とは言わないが、うまいと思うのは時間軸を入れ替えたり、巻き戻しの映像を入れたりしないこと(一箇所それをやっている場面があるのは残念、最後のあれが生きてこない)。

めちゃくちゃになった部屋を通り過ぎる女性が見える。ここは事前にどの女優が主演しているかを知っていれば顔は見せなくても彼女だと分かる。観客が三人より優位な立場に立てるのはここくらいで。後は彼らと同じ体験をするしかないのがこの映画最大のポイントだ。記憶喪失モノというと構成を複雑にしがちで、それらはいかに観客をミスリードするかを重視した小ざかしいものも多い。しかしこの映画の方法論ではそうなりようがない。数々の謎をばら撒きながら、映画の尺にあわせて回収すべきものだけど回収すればいいというのがシンプルながらいいアイディアだ(肝心の花婿の行方についてはやや反則気味)。

キャストでは花婿ダグを演じるジャスティン・バーサが相変わらずいい意味で存在感がなく、映画の半分以上いなくても気にならない(笑)。花嫁はプラスティックな表情という次元を超えて"ボトックス何回やりましたか?"と聞きたくなるお姿だ。歯抜け歯医者ステュを演じるエド・ヘルムズは正統コメディ演技。彼は婚約者からバカにされている小心者だがこの映画で成長が見せてくれるという意味では彼が一番。いうまでもなくこちらの婚約者の扱いも悪い、男がばか騒ぎする映画なので女は文句を言うだけのうざい存在にしかならない。またはそれとはまったく逆、男にとって女神のような存在なのがヘザー・グレアム演じるジェイド。しかも心が美しいストリッパーって、どれだけ都合がいいことか!まあ許してやろう。グループのリーダー的存在フィルを演じるのはブラッドリー・クーパー、軽く見えるのではなく本当に軽い人間なのだろうと思わせる個性はここでも健在。花嫁の弟アランを演じるのはザック・ガリフィナーキス、いるだけで笑えるような存在だけにいじりたくなるがそれをあまりやらない。その代わりに謎の東洋人ケン・チョンが一瞬にして場を持ってゆく、これは笑える 。

マイク・タイソンが殴るシーンも良かった。これはもう犯罪レベル(笑)。ラスベガスでやったのはカードカウンティング、前に別の映画で見たが犯罪ではないがやったら店から睨まれると他の映画で見た。

『パリ20区、僕たちのクラス』
2008年のカンヌでパルム・ドールを受賞したフランス映画、パリ市内の公立中学校のクラスを追うというドキュメンタリー・タッチの映画、パッと見ると生徒にアドリブさせているように思うが、じつは1年かけて作り上げたものだそうだ。それでも十分生々しいが、この映画に対してリアリティという言葉を使うのは危険だ。それでもドキュメンタリー風に感じるのは投げっ放しになっているエピソードが多いから、終盤のためにある生徒に関することは関しては結論を出さないといけないが、それ以外は教師のプライベートなども含めて回収されないものが多い。

邦題にあるパリ20区は旧植民地をはじめとする移民が多く、映画には仕事を求めてフランスにやってきた中国人もいる。さすがにフランスだけあって中学生も生意気であまり共感できるような人間が出てこない。特にエスメラルダとクンバの女子極悪コンビは終始教師に突っ込みを入れるなど一番酷い。そんな中で中国人の生徒だけは例外だ。それは彼がアジア人だからというのではなく、フランス語があまりよくできないので自己主張をあまりしないからだ。逆に言えば個人主義というだけでまとめるのが大変なのに、これだけアイデンティティがばらばら人間をまとめるのは至難の技に違いない。ここで思い出すのはサッカーのフランス代表だ。映画の中にはジダンの名前も出てくるし、アフリカ系の生徒の会話にはサッカーのアフリカ杯(アフリカ・ネーションズ・カップ)の話題が出てくる。地元開催で優勝したジタンをはじめとした移民の子孫が大きな戦力となった。よ続く2002年と2010年は予選リーグで敗退したが、それを責めるよりは2006年のチームをよく立て直したものだと感心する。98年のチームを見て他民族国家(チーム)万歳というのは簡単だが、彼らを常にまとめられる方法論など誰も持っていないのだ。

そしてこの教室をまとめる教師役フランソワ・ベゴドーは原案となる「教室へ」を書いた本物の元教師。生徒たちと同じ視線で語り、授業に取り組む。その一方で行き過ぎて生徒を挑発して失言したりして人間味がある。

フランスの学校制度で面白いのは教師たちの成績会議に生徒代表がオブザーバーとして参加できる点、ここに参加しているのは例のコンビ。持ち込んだ菓子を食べておしゃべりをするという予想通りの最悪の態度。でも生徒たちの評価をチェックして報告している。彼女たちもクラス全体のことを考えているようだ。いや本当はクラスを支配したいだけなのかもしれない。

ドキュメンタリー調といってもどこかで物語を締めないといけないわけで、ここではアフリカ系の少年のトラブルがそれに当たる。彼の母親が学校に呼ばれるが彼女はフランス語が喋れない。こうした移民問題を語りながらフランスの公立中学校に退学制度があることを教えてくれる。問題がある生徒はこの制度を使って転校させられる。なんともシビアだ。

最後でエスメラルダはプラトンの「国家」を読むなどいいところを見せる。その一方でこの1年で何も学べなかったという生徒もいて教育の難しさを感じさせる。ラストは中庭でのサッカー、いつも気難しい顔をしていた校長がこの中にいて意外性がある。終わり方は唐突だが、この切り上げ方はこの映画にふさわしいものだと思う。

『トイ・ストーリー3』
まずは恒例の短編「デイ&ナイト」から。短編というとショート・コントか動きを重視したものというのがふつうだが、今回はアイディアの勝利。スマーフみたいな格好をした擬人化された昼と夜が登場。最初は彼らの動きと彼らの中に写る出来事がシンクロしている点が面白い。次第に昼と夜の違いを出してくる。昼が騒がしかったら夜は静か、昼が子供なら夜は恋人たちという具合だ。大体は昼のほうが良さそうなのだが夜も花火などで対抗する。最後には仲良くなるのだが、某都市の昼と夜それぞれの華々しさを使ったあたりはお見事だ。

続編には必然性のある続編とそうではない続編があって、この「トイ・ストーリー3」は後者になる。一時期ディズニーがビデオ用のよく分からない続編を乱発していた時期があった。「トイ・ストーリー」もピクサー抜きの続編が出るという噂があったというだけでなく、バズ・ライトイヤーのスピンオフが作られている。結局ピクサーがディズニーに残ることでこうして、まともなパート3が作られたことはうれしいことだ。

また続編にはそのシリーズ用ではない脚本がアレンジされたり、逆にシリーズ用に用意されたものが別の企画として再利用されたりすることもある。この「TS3」もある意味ではそうした側面を持っている。つまり最初と最後はおもちゃと持ち主の関係を描くき(今回アンディは大学生になるためにしばらく使っていないおもちゃたちと本格的にお別れしなくてはならない)という「TS」のテーマを持ってきて、本編というべき中間部では別のアクション映画として成立させるのだ。もちろんそのパートは全体から浮いていないし、最初と最後がテーマをきちんと描くことによって中間部が遊びすぎても(そこまで行っていないが)かまわないのだ。ピクサーは脚本がいいと言われるが、今回のように「リトル・ミス・サンシャイン」のマイケル・アーントという外部の力を導入しても土台がしっかりしているからゆるぎないのだ。

今回の話は大学進学を控えたアンディはおもちゃたちを持ってゆくもの、寄付するもの、屋根裏にしまうものに仕分けなければならない。結局手違いでウッディ以外は幼稚園に寄付され、ウッディはおもちゃたちを家に連れ戻すため幼稚園に乗り込む。ウッディはそういうが、アンディの家に戻ってもどうせ屋根裏で、それよりは遊んでくれる子供たちがいるのでここで言いというおもちゃたち。こどもに遊んでもらってこそのおもちゃというシリーズのテーマをうまく持ち出している。単独行動をとったウッディはアンディの知り合いの女の子ボニーのところ(トロロがここにいる!)に行き、あの幼稚園がクマのぬいぐるみロッツォが牛耳る悪の帝国であることを知る。ここは当然のように大人向けであり、新キャラクターであるバービーのお友達のケンがギャンブル依存症になっているところなどはかなりきつめの描写だ。この幼稚園が監獄のようにしているからそこからの脱獄劇が盛り上がるわけだ(その前のウッディが最初に幼稚園から出てゆくのが一番のスペクタクルかもしれない)。ここで語られるのは仲間を見捨てないという、これまたこのシリーズのテーマだ。

今回ややダークになっているのは悪役を人間ではなくおもちゃの中に設定したことにある。これに関しては賛否両論があるだろう。それでもさすがにピクサーと思わせるのはロッツォがどうしてこうなったのをしっかり描いていて説得力がある。彼は最後までいやな奴で、かわいそうな最後を迎えるが、救いがないわけでもない。

中間部のラストで上にあげたテーマを織り込み、全体のラストでは最初に戻ってアンディとの別れとおもちゃにとっての幸せとは何かという問題にきっちりと結論をつける。ウッディの選択も仲間のことを考えているからこそだ。

新キャラクターではバービーでなくケン、彼の七変化がいい。人間ではボニーちゃん、ピクサーにしてはデザインがよくないと感じるが「1」「2」との整合性を考えるとこれでもいい。

『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』
原作者スティーグ・ラーソンが3部作を書き上げたあとでも話題のミステリー「ミレニアム」シリーズ、各メディアのミステリー番付でも上位に来ているわりにはさほど盛り上がってない(?)この映画、別ルートでハリウッド・リメイクも決まっているが本国産の映画も見ておきたい。

一足先に読んだ小説の感想を先に、小説の構成はサンドウィッチ形式になっている。主人公の雑誌ミレニアム記者ミカエル・ニクヴィストが告発記事を書いたが、それははめられたものでありそれにより彼は裁判で有罪判決を受ける。ここがサンドウィッチのパンの部分なのだがここがあまりうまく機能していないように思う。映画ではこの部分をばっさりと切り、ミレニアムの発行会社と(ミカエルに姪ハリエットの捜索を頼んだヴァンゲル・グループの前会長)ヘンリック・ヴァンゲルとの関係もなく、40年前の事件の話に集約していいていい。

原作読者が気になるのはなんと言っても実質的な主人公リスベット・サランデルだろう。演じたノオミ・ラパスさすがに25歳なのに15歳にしか見えないというのは無理だが、それ以外はイメージ通りだ。さらにリスベットとミカエルが仕事を始める前どころか、冒頭からリスベットを登場させるのは映画の利点を利用している。この二人が出会うまでのテンポの良さはこの映画一番素晴らしいところである。もちろん後景人との例のシーンはある。ラスト近くに彼女がある人を追い込むところについてはアレンジがあって原作読者にとっては賛否があるかもしれない。父親に対するトラウマは多い気もするが、この変わった女性の背景としては悪くない。

対するミカエルはやや弱めに感じる。原作では中年なのにモテモテ状態だが、この方面は控えめ。ボクのイメージとしてはベニチオ・デル・トロ。原作を踏襲しすぎたのか女優が軒並み老け気味なのが気になった。ハリウッド版ではここに気を使ってほしい。45〜55くらいのいい女はいくらでもいるはず。

全体の流れからすると二人が合流してからはやはり原作を追いかけるのに必死でテンポは前半ほどよくないが、それを気にしなければ出来はかなりいい。ミステリーのキーポイントであるBJの意味、ハリエットが恐れた人、ことの真相が明らかになるあたりはもう少しじっくり演出しても良かったと思う。

『コララインとボタンの魔女』
いまや"ティム・バートンの"がつくようになった「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」だが、監督はストップ・モーション・アニメにこだわるヘンリー・セリックだ。バートンはロシア民話を基にした「コープスブライド」を作り、セリックはニール・ゲイマンの児童文学を映画化した(ゲイマンに関しては小説を何冊か読んだし、最近「サンドマン」や「デス」といったコミックも読んだのでなじみがあるが、「コラライン」が異色であるのは間違いない)。これらを比べて二人の資質を論じるほど詳しくはないが、「コラライン」では別のママが怖くなったときのカクカク感、映画オリジナル・キャラクターであるワイビーが登場するときのゴーストライダー感(つまりはガイコツ感)が印象に残る。しかしそれよりインパクトがあるのは二人の老女の舞台、最高にビザールでいい。

またストップ・モーション・アニメに関する苦労は素人が考えてもどれだけ大変かは分かる(でも後半にある世界が崩れる様子はCGを使っているのもしれない。ただし画としては悪くない)。とくにコララインの髪の毛にはどれだけ力が入っていることか!オープニングからコララインの人形を作るところからハートわしづかみ、あの人形を見ていると「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のサリーを思い出す。またキャラクターとしてはあちらとこちらの世界を行き来する黒猫が気に入っている準主役といっていい。

別世界で色々な体験をして、元に戻るというと「アリス」や「千と千尋」を持ち出すまでもなく良くあるが、最近では「かいじゅうたちのいるところ」があった。ストーリー展開はこちらのほうがうまい。これは原作が絵本の「かいじゅう」と児童文学の「コラライン」の違いというより脚本の出来の差だ。「かいじゅう」のマックスは別世界でやるべきことが明確でないので見ていて不安を感じる。「コラライン」では別世界に一気に行くのではなく初めのうちは戻れるし、悪くない世界にも思える。次第に状況が悪くなるのは定石どおりだがそのもって行き方がうまい。"コラライン、キャロライン"、"ワイボーン、ワイビー"といった名前が持つ力の話は「千と千尋」で同じ。自分(コララインや別のママ)にとって都合の良い世界は誰かを犠牲にしてはじめて成り立つので、自分が支配者にならないと実現できないのだ。好奇心が高い少女がそれなりに責任感を持つようになるまでがうまく描かれ話に安定感がある。

声の出演はコララインにダコタ・ファニング、そろそろ大人になってきたダコタだが、ここでは自分より年下の子のわがままさを出して好演、妹エルだとこうはいかないだろう。日本語版は榮倉奈々、どちらかといえば下手ではあるが、それゆえに少女っぽさは出ているように思う(それがいいことなのか、吹替え製作者の狙いなのかは分からないが)。母親を演じるのはテリー・ハッチャー、家事もあまりしない母親というのはドラマ『テリー・ハッチャー』のイメージを引き摺っているようだ。日本語版は戸田恵子、こちらは別のママとなってからの怖い人格になってからが聞き物。劇団ひとりの黒ネコ皮肉屋っぽくて良かった。また音楽も予想以上に良い。ひまなときには立体メガネを外してみるのも面白いかも。

2009年のトップ10
  1. レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで
  2. ミルク
  3. 扉をたたく人
  4. レイチェルの結婚
  5. ヘルボーイ/ゴールデン ・アーミー
  6. スペル
  7. グラン・トリノ
  8. ウォッチメン
  9. 「REC/レック2」
  10. スター・トレック

1〜4位が飛びぬけていて5位以下の映画はほとんど見たときにはベスト10入るか入らないかの出来だと思っていた映画だ。気付くと後半の映画が6位と9位しかなく、つまりは夏の大作、秋の文芸作品、冬の大作のすべてが不調だったということで、2009年は全体的に見て不作だったということになる。ここにあげなかった作品では『フロスト×ニクソン』『スラムドッグ$ミリオネア』のようによくできているけど自分の趣味とは合わなかったタイプより、『レスラー』『愛を読むひと』『カールじいさんの空飛ぶ家』(ついでに10本に入れた『ウォッチメン』『スター・トレック』)のようにいいところはあるけど、まとめ方や細部の出来に問題があるというタイプが多かったことが不作の傾向に拍車をかけた。

全体を見渡しても今年はロマコメがない。米国では復活記念の年になったサンドラ・ブロックの新作も見ていない。この中では『ヘルボーイ』がロマコメ(『REC2』はホラーで、『スペル』はコメディ)。クリント・イーストウッドは『チェンジリング』どう見ても資質と題材が合っていない上に珍味もない。『イングロリアス・バスターズ』は映画秘宝の別冊で脚本の削られた部分を読むと、削らないほうがいいものができたと思う。なんにしろ色々と語れる作品があることはいいことだ(その中に『アバター』も入れておこう)。

印象深いのは『ベンジャミン・バトン』と『レボリューショナリーロード』。アメリカの黄金時代がいつかは議論があると思うが、20年代のフィッツジェラルドと50年代のリチャード・イエーツというアメリカ二大黄金時代の作家の小説が映画化されたことの意義は大きい。『ベンジャミン・バトン』はエリック"フォレスト・ガンプ"ロスが原作の名前を借りただけのノスタルジーもの仕上げて社会性が薄いのが難だが、デヴィッド・フィンチャーがこの手の映画を撮ったのが面白い。『レボリューショナリーロード』は50年代と現在が重なるというよりは、この当事から連綿と続くものを見せ付けてくれた。80年代のコミックを映画化した『ウォッチメン』はタイミングほか色々考えさせられた。昔と今の空気が似ているというのを深く考えずに作ったのは『ダウト』だろう。

ヨーロッパ映画は際立ったのはなかったものの『ジャック・メスリーヌ』『夏時間』『湖のほとりで』『誰がため』あたりは佳作。日本映画は入らなかった。韓国映画は簡単にサスペンスとはいえない『チェイサー』『母なる証明』を見たが個人的には喰い足りなかった。見逃したのは『ディア・ドクター』『クリーン』『精神』など。

主演助演を問わない俳優賞はベスト男優がリチャード・ジェンキンス、『扉をたたく人』はもちろんのこと『バーン・アフター・リーディング』もあった。ただし助演としては昨年末の『ブロークン』のほうが良かったのでその印象込みで入賞。次点はマイケル・シーンとベン・フォスター、フォスターは若手部門に選ぼうとしたが、もうけっこうな年齢だ。

ベスト女優は素直にケイト・ウィンスレット、『愛を読むひと』は内容も含めて微妙だが『レボリューショナリーロード』が良かったので問題なし。助演ならアナ・ウィンターの下で働く彼女に!!次点は、アン・ハサウェイ。化粧っ毛のあまりない『レイチェル』もいいが『パッセンジャーズ』はきれいに撮られているので一見の価値あり。期待の俳優にあげておいたレイチェル・ニコルズは役割が小さいものの2本の全米ヒット作に出ていたぞということで、ヒュー・ダンシーさん結婚おめでとう。

若手部門はあまり思い浮かばないのだが『ノウイング』『エスター』(マックス)『2012』と子役がかわいい映画は多かった。この中から選ぶとエスターになるが、誰もが思うだろうが彼女の今後が心配でもある。

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで 演出、出演俳優の演技(ドイツ人の苦悩を英国女優が英語で演じるより、英国女優が悩める米国人女性を演じるほうがはるかにまし)も素晴らしいが、撮影と音楽はその上を行く。担当者はそれぞれ別の映画でアカデミー賞にノミネートされているが、そちらより良いのだから困ってしまう。さらに古い時代と現代のつながりでは裏返しになっている部分とつながっている部分への配慮がうまい(たとえばゾエ・カザンというキャスティング)。*

ミルク ガス・ヴァン・サントが暗殺されたゲイの政治家の映画を撮ると聞いてどんな力が入った映画になるかと思えば、いい意味で引き気味の視点が素晴らしい映画になった。なにより描くべきことが整理されているのが良い(日本人には市政執行委員という制度が分かりにくことを含めて政治的な手法が少々分かりづらいのは難点)。何を描いて、なにを省略するかよく分かっている脚本だ。『イングロリアス・バスターズ』の脚本家はこれを見て勉強してほしい。映画としてはショーン・ペンの笑顔がチャーミングなことに驚かされる。その他では若手を中心とした俳優もそれぞれが輝いているのだが、ミルクを殺したホワイトを演じたジョシュ・ブローリンに尽きる。彼とミルクの関係が表と裏に見える瞬間にあることに注目。ついでに監督の外見ともよく似ている。*

扉をたたく人 クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』が保守派視線の映画ならこれはリベラル派視点。大学教授のニューヨーク別宅に勝手に住んでいた移民を警察に突き出すか銃でぶっ放せば終わってしまう。リベラルならではの甘さもあるのだが、そこはリチャード・ジェンキンスが見せる年輪で補う。モーナを演じたヒアム・アッバス以下の脇役も良い。年寄りでも何かを始められるのも『グラン・トリノ』と同じ。*

レイチェルの結婚 これもリベラル学者家庭の話。しかも完全に壊れてしまった家庭。その原因を作ったのが主人公のキム、姉レイチェルの結婚式も乱す。母親役のデブラ・ウィンガーのビンタ場面は色々考えさせる。脚本家はシドニー・ルメットの娘ジェニー・ルメット、体験をベースにした場面はあるだろうが、シドニー・ルメットはこの父親とはかなり違うだろうなと思うのであった。いやここに出てくる父親も相当に頑固なのだが。

ヘルボーイ/ゴールデン ・アーミー『ヘルボーイ』のあとに『パンズ・ラビリンス』で評価を高めたギレルモ・デル・トロだけに、今回は余裕が出た一本。コミカルな部分が強調されるなど、余裕がが悪い方へ働いた部分もある(原作者を怒らせたバリー・マニロウの場面ほか)。ルーク・ゴスは『ブレイド2』と同じ使われ方になっている物語についても気になった。それでもジブリを思わせるエコテーマとか機械仕掛けの様子などは見所。パート3はアルマゲドンだと監督が数メートル先で言ってくれた。今から楽しみだ。

スペルホラーの皮を被ったコメディ。サム・ライミの演出はビシバシ決まって隙がないのがこのジャンルにはふさわしくないように思えるが、話がくだらないので(ほめている)どう間違っても笑える。いじめ抜かれたアリソン・ローマンも良いが、ローナ・レイヴァー演じる老婆がすべてをさらって行くのは誰もが認めるところだ。*

グラン・トリノクリント・イーストウッド監督作としては平均的で、陳腐なシーンも多いのだが、そこに俳優クリント・イーストウッドが加わることで意味を持ってしまうという罪作りな一本。セルフパロディか集大成かという問題はさておき、ややコミカルな前半からシリアスな後半への流れは予想通り、でもうまい。エンディングは爽やかすら感じさせる。

ウォッチメン一度見て、原作を読んでからまた見た。原作を知っていると不満な点もそこかしこに感じるのだが、ザック・スナイダー以外の監督だったら酷いことになっていただろうことは想像がつくというジレンマを感じさせる一本。

「REC/レック2」ホラー系の映画はこれ。1作目のPOVという方法論を捨て、複数の視点や時間軸のいじくりなど、マンネリ化を防ぐために新たな手法を導入している点は評価したい。元凶に関しては反則気味にも感じるが、スペインはカトリックの国だったなと思い出せてくれる。今年一番で辛い状態になった映画。*

スター・トレック監督としての力量には疑問符がつくJ・J・エイブラムスだが、ここでは脚本やテンポが良く。娯楽作として素直に楽しめた。ただ終盤で失速しグダグダになるのは気になる。同じ脚本家チームを使いながらそれらを少しも生かすことができなかったマイケル・ベイとの差は明らかだ。

『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』
この作品の意義については原作の感想の時に書いたものとあまり変わりない(パンフレットに大場正明氏の寄稿はなかった!)。どちらにしてもこの副題は適切でないばかりか、いくらかの誤解を招くのでふさわしくない。これは「タイタニック」レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットのコンビが夫婦役で再びと言うよりは、「アメリカン・ビューティー」の監督サム・メンデスと「リトル・チルドレン」主演女優ケイト・ウィンスレットという現代のサバービア映画を作ってきた人たちが満を持して 50年代のサバービア映画に挑戦した作品と言うべきだ。

サム・メンデスの演出手法は甘さ控えめ、登場人物たち(というよりこの夫婦)の愚かな行動に関しては冷めた視線で描いている。徹底しすぎて彼らに共感できる人は少ないだろうし、単なるケンカ好きの夫婦に見えてしまう危険性もある。ケイト・ウィンスレットは自称女優志望の女性が家庭に入り、子供ができた後に市民劇団で演技に挑戦したら失敗して自己嫌悪に陥る妻(舞台の様子を省略するところがまた残酷だ)と何の根拠もなく夫にパリ行きを勧めるというという妻、このふたつをうまく表現している。一方レオナルド・ディカプリオは妻の前ではいい顔をしたくとも、会社での存在感は薄く、妻が不満を漏らすと逆切れを起こしてしまうような器の小さな男を演じている。キャラクターとしては一貫しているがその分単調に見えてしまうのは少しかわいそうだ。

脚本はおいしい所をかいつまんだというよりは小説の持ち味を大切にして脚色している。「エデンより彼方に」とは違い、映画ならでは飛び道具を用いず黒人も同性愛者も登場しない。映像は美しくても白々しくはならない。ケイト・ウィンスレットのファッションも同様で、確かに古いのだろうがデフォルメされることはなく、現代から見ても大きな違和感は無い。むしろ男性陣が帽子姿で電車通勤する姿(とくに駅の場面)の方が不気味である。メーンテーマが何度も登場するトーマス・ニューマンの音楽こそややくどく古臭い気もするが、個人的にはアカデミー賞にノミネートされた「ウォーリー」より素晴らしいと思う。

夫婦生活に意味を見出せないふたり以外の登場人物はあまり印象を残さない。不動産屋のヘレン(キャッシー・ベイツが演じ少し「アメリカン・ビューティー」のアネット・ベニングを思い出す)の息子(マイケル・シャノン)は心を病んでいて、彼だけが夫婦の真実を指摘するのは原作と同じだが、やはり映像で見るとインパクトがある。それでも異物として作用させないで、鏡として彼を使うのは原作通りとは言え単に50年代を陥れるようなドラマにしないためには有効的だ。

50年代と現代で同じような問題があるかもしれない。表面上キレイな50年代にはそれは見えにくかったのかもしれない。原作の感想で"60、70年代にアメリカ社会は変貌を遂げる。キューバ危機、ケネディ暗殺、公民権運動、フェミニズム、性の解放、ベトナム戦争など、これらを否定したい人たちにとって50 年代は模範とすべき最後のアメリカなのだろう。それと逆に60、70年代の文化にルーツに持つクリエイターは、50年代にも後の時代につながるような要素を見いだすことによって、自分たちのルーツを肯定したいのだろう"と書いた。50年代文化はあくまでも50年代にだからこそ有効であって、ノスタルジーで 50年代文化を求めても仕方ない。同じような文化であってその内容は少しずつ変わっていくはずだ。とは言え原作のところで述べたようにこの方法論が正しくてもやや時代とのずれを感じるので、このタイトルにした。

ちなみにレオナルド・ディカプリオの不倫相手を演じるのはゾエ・カザン、赤狩り時代に仲間を売ってことでも知られるエリア・カザンの孫である。これが偶然か、意図したものであるかを考えるのは個人の自由。意図したものであるとしたら原作つき映画の中で精一杯の監督の主張でなのかもしれない。少なくても「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」の描き方よりは面白い。

『ミルク』
70年代後半と言うと現代から見ると中途半端に思える。激動の60年代の印象が強いせいだろうか、この映画では政治を扱っているわけだがこの時期のカーター大統領も地味だ。音楽の世界では70年代的なものは72,3年ごろまでに出尽くした印象がある。イギリスではパンクという出来事があったが、アメリカでは全国規模の流れにはならず「ホテル・カリフォルニア」や「噂」と言ったメガヒットに代表される成熟の時代か、ディスコの時代である。映画の世界はやや違い、アメリカン・ニュー・シネマの時代を経て「ロッキー」、「ジョーズ」、「スター・ウォーズ」が登場して次の時代の到来を感じさせる。

同性愛者であることを公言して公職に就いたハーヴェイ・ミルクを扱ったこの映画はアカデミー賞のショーン・ペンのスピーチやプロポジション8/住民投票事項8と言った政治的な話題が先行しているが、ショーン・ペンの前作「オール・ザ・キングスメン」を思い出してみるとあることに気付く。あの映画はオスカー・クラスの俳優を揃えながら失敗作とされ、ジャッキー・アール・ヘイリーの復活したことくらいしか注目されないが、政治家が公の場で射殺されたと言う点ではこの映画と似ている。ショーン・ペンには「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」という映画分かりやすい映画もある。彼にはある種の自殺(あるいは人に殺されたい)願望があるのではないかと思う。監督作「イントゥ・ザ・ワイルド」も(否定する人も多いだろうが)その視点は欠かせない。

オープニングでハーヴェイ・ミルク(ショーン・ペン)がニューヨークで若いスコット・スミス(ジェームズ・フランコ)をナンパ〜ベッドインするまでを軽い足取りで描いて、すぐにサンフランシスコへ話は移る。政治家ハーヴェイ・ミルクの歩みを描きながら面倒な政治の話や駆け引きは切り捨てている点はガス・ヴァン・サントらしい。市政執行委員という制度や政治問題が市単位だったり、州単位だったりして(ときには遠くの州の話題も)、日本人には分かりづらい(パンフレットでもっとフォローがあったほうが良かった)。

しかめっ面がトレードマークともいえるショーン・ペンが笑顔をたたえる姿は始めのうちは違和感もあるが次第に気にならなくなってくる、肩肘を張った演技ではなく、ミルクを知らないような人間にも彼が好人物に見えてくる。他の俳優もどちらかと言うとゲイのイメージは薄い。ガス・ヴァン・サントと言えば美少年という先入観を持っていると肩透かしをくらう。ジェームズ・フランコはがんばっている感じが少しこちらに伝わってくるのがペンとの演技力の差だが、不器用な愛情表現のようで悪くない。同胞にカミングアウトしろと訴えるミルク、この二人は映画の中でも進んだゲイなのだろう。それと対照的なのが新恋人ジャック・リラ(ディエゴ・ルナ)で、彼は内向的なゲイでそれがミルクにも良くない影響を与えることになる。

面白いのはミルクを射殺したダン・ホワイトを演じているジョシュ・ブローリン。この映画で彼の外見はなんとガス・ヴァン・サントとよく似ている!いや実際にはダン・ホワイトと監督の外見がよく似ている。監督はそんな彼を抑圧された状態に描いているそうだ*。フィクションの映画なら自分が隠れゲイであることを認めたくない人間はゲイを殺した後に自殺するのがパターンだ。この映画は実話がベースでホワイトがそうしなかったことは変えようがない(実際にはアイルランド系の元警官という彼に有利な陪審員の人選により比較的軽い刑を受けて出所した後に自殺している)。ダン・ホワイトの出番は多くないものの、その少ない場面で静かなインパクトを残している。

ミルクの死後の静かなパレードは印象的だが、ホワイトに軽い判決が下った時には暴動になったらしい。この数年後にエイズの問題が出てくることを考えるとミルクの登場がもう少し遅れていたらゲイの地位向上は難しかったのかもしれない、その意味では彼の登場は必然だったのだろう。政治的な面は少ないとしたが、自分の主張を通すために政治に参加しようとする態度はきちんと描かれている。要職に就くことではなく、やりたことのために職を目指す人は力強い。支持母体から突き上げを食らうホワイトと対比はやや単純化しているようにも感じられるが、そこが彼の弱さのひとつであったことはうかがえる。

『扉をたたく人』
この映画はクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」と比べてみると面白いと思う。「グラン・トリノ」はイーストウッド主演作としてはかなりのヒットとなったことで、アカデミー賞のノミネートも期待されたが一部門もされなかった。かつて「父親たちの星条旗」が今ひとつの評価に終わったものの連作であり(外国語映画としてのハンディがある)「硫黄島からの手紙」がノミネートされたくらいだからイーストウッドはアカデミー会員に人気が高い。だから作品・主演・音楽・主題歌のどれかにノミネートされてもおかしくない。中でも(毎回のお約束とは言え)最後の主演作と言われていただけに主演部門のノミネートされなかったのは残念だった(もちろんあれがキャリア最高の演技かと言う問題はあるし、イーストウッドだから許されると言う展開も多々あるのも気にはなる)。それでもこの「扉をたたく人」を見ると「グラン・トリノ」とテーマが似ていて、リチャード・ジェンキンスがノミネートされるならイーストウッドはないかなと思ってしまう。また「フロスト×ニクソン」フランク・ランジェラもいるので候補にベテラン3人は多すぎるということになりかねず(そうなると外れるのはブラッド・ピット?それは話題的には避けたいか)。そんな政治的駆け引きがあると考えるのはそれはそれで楽しいが、リチャード・ジェンキンスは俳優組合賞でもノミネートされているわけでサプライズ・ノミネートでもない。

この映画を「グラン・トリノ」と比べてみる。妻を亡くしてやる気をなくした老人が移民の青年と出会うことでやる気を取り戻す一方で、彼らの人生に係わったために彼らも自分たちも傷つくが後悔はしないという共通点がある。違う点としては青年が「グラン・トリノ」の場合には難民二世であるのに対してこちらは難民と認定されない不安定な立場であること、さらには「グラン・トリノ」は相手が少年であるので老人と擬似親子関係になるのに対してこちらは年上なので友人関係に近く青年から音楽を教わることも違和感がない。当然ラストも違ってくるが、イーストウッド主演ならこれも終盤はハードな展開になるかもしれない(笑)。

映画はなんといってもこれが初主演作だというリチャード・ジェンキンスに尽きるだろう。脇役で活躍する俳優は日本の笹野高史氏を見ても分かるように実年齢より老けて見えることが重要だ。本作のジェンキンスも実年齢と大して変わらない設定だと思うが、主人公の大学教授ウォルター・ヴェイルは妻を亡くして疲れた表情をしているので、彼の顔が効果的だ。

物語はウォルターが学会のためにニューヨークの別宅を訪問したときにそこに二人の移民が住み着いていることから始まる。一度は当然のように追い出しながらも二人にしばらく滞在することを認める。このウォルターの対応は優しすぎるとも思えるがこれは彼の性格もあるだろうし、非ニューヨーク住民ならではの対応かもしれない。

この映画がいいと思うのは細かいところまで行き届いている点だ。シリアスなドラマでありながらクスっとしてしまう場面はあるし、ニューヨークの隣人のキャラクターの作り方などもうまい。ジャンベというアフリカを思い起こすパーカッションを使いながらその演奏者タレクはシリア出身であり、彼の恋人ゼイナブはセネガル出身というはずし方にも感心してしまう。

ウォルターは妻の形見であるピアノを諦めて青年とジャンベを演奏する。年下のタレクから教わることでここ数年の生気のない生活を振り払うことができたわけだ。やがてタレクがビザ問題でトラブルに巻き込まれ入国管理局に拘束され、彼の母親モーナも登場して911以降の厳しい現実というやつを見せてくれる。母親を演じるのは「シリアの花嫁」でも印象的だったヒアム・アッバス。力を入れているわけではないが、意志の強さと秘めた優しさをここでも見せてくれる。911以前ならタレクの申請も通ったかもしれないし、ダイナーで見せる入国管理局職員の態度の大きさを見れば、この映画がどちらの立場からにいるか簡単に分かるが、そのいかにもお役所仕事ぶりも印象に残る。

この映画の立場からしてもこうなるしかないというビターな結末だが映画の語り手の視点が優しいからか、気にならない。「オペラ座の怪人」のエピソードはやや浮いているようだ。また「扉をたたく人」 という邦題はなかなか良いが、原題の「The Visitor」と比べると誰を指すのか気になってしまう。

『スペル』
「スパイダーマン」シリーズを経てホラー映画に帰ってきたサム・ライミの新作。ヒロインはロリ顔女優と呼びたいアリソン・ローマン。ロリコン女優が監督や本人の志向でロリ役をやるのに対して、ロリ顔女優はたんに顔が幼いので実年齢より若い役をふられると定義したい。ここでは幼く見える分だけ上司から信頼を得られないということになっている。さてこの映画はほぼローマンがいたぶられる姿を楽しむ映画で、その様はホラーというよりコメディだ。ホラー描写が行き過ぎて笑うしかないというのはまた少し違う。演出が中途半端なために笑えてしまうB級ホラーの脚本を「スパイダーマン2」並の演出力で作るので、ヒロインをいたぶる方法やタイミングの適切さは見事というしかない。ただそのままではきっちりし過ぎて怖くも面白くもなくなる可能性がある。そこでこの映画はどうしたかというと、ヒロインと彼女を襲う老婆以外のキャラクターを弱くすることで隙間を空けて風通しをよくし、二人の姿に集中できるようになっている。標的はヒロインひとりなので首が飛ぶようなスプラッター描写はないし、血がどばっと出ることもない(一箇所ヘンな血が出る)。最後の戦いで見せるクリスティンの泥まみれな姿も見もの。

銀行でローンを担当しているクリスティン(アリソン・ローマン)は現在空席の役職を得るためにライバルに勝ちたいと思う。怪しげな姿をした老婆(ローナ・レイヴァー)のローン延長を審査する。延長も拒否もできそうな案件だが、老婆の振る舞いの酷さと、上司にアピールするためには厳しくしたほうが良いと考え申し出を拒否する。すると老婆は態度を豹変してクリスティンに襲い掛かる。その場はすぐに警備員に押さえられるが、連行さえる前に呪いを掛ける。邦題はそこから来ている綴りと勘違いする人もいるようだが、spellやspellboundという言葉は洋楽の曲名や歌詞に出てくるので知っていた(例:I Put A Spell On You)。

クリスティンが帰宅しようと地下駐車場に行くと老婆が出てきて噛み付きをはじめとしたあらゆる手段で攻撃してくる。クリスティンもなぜかデスクからホッチキスや定規等を持ってきていて対応する。別の場面では板金(?)まで出てくるのが老婆は不死身なのでどんなもので攻撃してもえげつな感じがしない。駐車場の出来事があった後はまさに悪夢である。老婆はあらゆる物に姿を変えて(あるいは操って)クリスティンを攻め立てる。現実か幻想か悩む暇などない。仕方なく老婆の孫の所に行って老婆に謝ろうとするが、すでに彼女は死んでいた。死んでいても呪いは続く。街の占い師に相談して霊媒師を紹介される。その交霊会がどうなるかはさておき、最後に聞いた対処方法が"そんなもん初めから言えよ!!"と言いたくなること間違いなし。

上で書いたように二人以外は影が薄い。恋人はジャスティン・ロングで、彼の両親との食事場面もあるがもちろん恥をかかせるための装置でしかない。恋人は心理学者なので、ふつうなら彼女が体験していることは幻だとして彼女の主張は認めない。例えば彼女に見えているものが彼には見えなくて彼女はおかしくなった様に見えるなどのやり方があるが、ここでは素直に霊媒師に払う料金を工面するのがいい。その霊媒師は「バベル」のアドリアナ・バラッサなのだが、まあこちらもあまり意味がない。

考えてみればクリスティンはとくに悪いことをしたわけではない。その後に謝ったとしても同僚のやったことの方がたちが悪い。あの現場にいたらあの結論を導く人は多いだろう。そのわりは受けた仕打ちがきつすぎる。うーん、そこまで考えるような映画じゃないか。あれがヒロインの運命だと見るしかないだろう。

『「REC/レック2」』
スペインのPOX映画「●REC」といえばテレビレポーターのアンヘラとカメラマンのパブロが建物に閉じこまれた恐怖と感染者たちとの戦いがなかなか面白くアメリカで「REC:レック/ザ・クアランティン」としてリメイクもされた。映画の終盤では教会が悪魔つき少女を調べていたことがわかり、あの少年と干からびた老女はなんであるかという疑問を引きずったまま終わらせたのでパート2ができたわけだ。

本作は文字通りあの現場のその後が語られる。今度は4人から成るSWATチームと怪しげなドクターが建物の中に入る。もちろんその中の1人がカメラを持つ(実際に撮影しているのは前作に引き続きパブロだ)。CCCDカメラも付いているので離れている隊員の様子も分かる。結果としてはパート1がテレビ的なら今度は映画的な映像になっているように思う。それに加えてあの建物に誤って入ってしまう素人が撮った映像も入るので、パート1の一方通行的なPOV映像のスタイルはやめたと判断したほうがいい。

ドクターを名乗っていた人物はすぐに神父だと判明する。パート1の時点でどこまの設定があったかは分からないが、教会がこの問題に係わっていることは確かだ。日本人からすると"なんだ、ゾンビからオカルトか"と思うかもしれないが、恐怖とは宗教的価値観が大いに係わっているし、この展開にスペインがカソリックの国であることを思い出させてくれる。今でもエクソシストができる(資格のある?)神父もいるはずだ。そういえば現実のエクソシスト事件を扱ったという触れ込みの映画「エミリー・ローズ」のヒロインはアメリカ版のアンヘラ(アンジェラ)役のジェニファー・カーペンターだった。

神父は単に悪魔退治をしようとするだけでなく悪魔つき少女メデイロスの血液を採集してワクチンを作るという。悪魔とウィルスのハイブリッドだ。これを安易というなかれ!ゾンビという言葉ももともとはハイチのブードゥー教から来ているではないか。しかしせっかく回収した血液の入った試験管の扱いが雑で笑える。あれは外に持ち出してもよさそうなものだ。暗視カメラと宗教的な要素をミックスさせるアイディアはうまい。

ともかくパート1ラストの2人の正体は分かった。見ているほうはややご都合主義だなと思っているとアンヘラまで出てくる。やりすぎだと思うのだが、きちんとラストでツイストがある。もうここまでやってくれればアッパレと言ってあげたい。それでも途中にはさまれるアホな若者にはいらいらさせられるなど問題は残る。

今回のポイントはパート1と違った恐怖にある。単に揺れるカメラワークだけではなく、何度か映像が途切れる瞬間の光の入れ方が効果的で頭がクラクラする。さらには遠くから聞こえるヘリコプターの音が文字通り耳の中にバグが入り込むような気持ち悪い音として襲い掛かるような感覚に陥る。中盤で生あくびがでて、やがてヘンな汗までかいてきた。体調が悪くなったと言う意味では近年最高(最悪)の映画だ。

2008年のトップ10
  1. 4ヶ月、3週と2日
  2. つぐない
  3. ノーカントリー
  4. アウェイ・フロム・ハー 君を想う
  5. WALL・E/ウォーリー
  6. アイアンマン
  7. トロピック・サンダー/史上最低の作戦
  8. ミラクル7号
  9. 寝取られ男のラブ♂バカンス
  10. JUNO ジュノ

シネコン時代と言われるわりには見逃した、あるいは見逃しそうになった映画が気になった一年だった。ミニ・シアターでも複数スクリーンがある映画館ではロングラン作品にスクリーンをとられ公開直後の作品の扱いが悪くなることがしばしばあった。8週興行なんてもはや過去で、3週目までに行かないと上映されていても見づらい時間帯に追いやられる危険性が高い。興行は1週目が勝負というけれど、それだけではないはずだ。

今年10本の映画を選ぶのは難しかった。上位5本程度までは簡単に選べるのだが、6〜10位の順位をつけるのがとくに難しい。というより6〜20位くらいまでは候補がたくさんあるという状態。また選外となったが女子供向け映画と軽視されがちな中にも『テラビシアにかける橋』『スパイダーウィックの謎』『魔法にかけられて』『ペネロピ』『ぜんぶ、フィデルのせい』と秀作が多かった。今年気になったのはドキュメンタリーが面白くなかったこと、特殊なジャンルなので日本に入ってくる時点で一種のフィルターがかかっているのだろうが、つまらないものが多かった。理由は簡単で単に映像を並べただけで脚本も構成も酷いものか、その逆に構成等に気を取られてドキュメンタリーらしさを無くしているかのどちらかだ。中ではオーソドックスな『ウォー・ダンス/響け僕らの鼓動』とやや反則気味ながらもこれなら許せる『未来を写した子どもたち』が良かった。

今年の映画の傾向を語るほどの本数は見ていないが『JUNO ジュノ』はこれに今年を象徴させたい一本。二度目以降になるとジュノと彼氏、マークとヴァネッサ夫婦以外のキャラクターが弱かったり、ジュノの台詞回しが鼻についたりと欠点も見えるのだが、それでも面白い。これは中絶反対の映画だと主張する人もいて別にそれは勝手にやってくれと思うのだが、そんな人たちが求める古き良きアメリカの家族なんてものは既に無いという現実を認識させてくれた方が自分にとっては大きい。親の再婚や養子といった、単純でない親子関係は例えば『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』から子供向けの『カンフーパンダ』までいくらでもある。なにより両大統領候補が本人か家族(親)がそうだったのだから。

主演、助演を問わないベスト男優はジョシュ・ブローリン。『ノーカントリー』『アメリカン・ギャングスター』『告発のとき』と質の高い作品に急に出演。これは寡黙なテキサス男or嫌な上司が似合い、それでいて実はいい人にもなれるからだろう。親父(『ハンティング・パーティ』)と嫁(『ブラックサイト』『最後の初恋』)の活躍も込み。『ミルク』『W』とまだまだ楽しめそうだ。

期待の俳優としてあげておいたヒュー・ダンシーは2本公開されたものの、映画そのものがイマイチ。同系統のジェームズ・マカヴォイにすっかり抜かれた形だ。ヘタレ俳優としてもアメリカのジェイソン・ベイトマンの方が目立っていた。そのベイトマンも映画版『ステート・オブ・プレイ』のヘタレぶりに期待。また2009年は『Fanboys』の出演者の誰かの活躍に期待したい。

ベスト女優はアナマリア・マリンカに、『コッポラの胡蝶の夢』では出番が少ないので実質的に『4ヶ月、3週と2日』のみの評価。期待の女優としてはレイチェル・ニコルズ。

バカ映画部門は『テネイシャスD 運命のピックをさがせ!』(『ホット・ファズ』や『トロピック・サンダー』はまっとうなアクション映画だ!!)。別にあなたが脱がなくても部門は『告発のとき』のフランシス・フィッシャーと『その土曜日、7時58分』のフィリップ・シーモア・ホフマン(のお尻)。

旧作上映部門では『赤い風船』『白い馬』『ミツバチのささやき』『エル・スール』、これらはどこか共通する感覚があると感じる。

『4ヶ月、3週と2日』ワンショットでも長回しでもいいが、その手の撮影テクニックは戦闘場面でよく使われる。それは戦闘の緊張感をそのまま伝えるためである。この映画には戦闘場面はないので、日常のひとコマとして出てくるが、実に自然に行われる。分かりやすいのはバスに乗ろうとして歩道橋を渡る場面だろうか。主人公の行動は分かりにくいがヒントは映画の中にいくつかある。バス内で助け合う場面、客商売にしては対応が悪いホテルマン等にこの国が傾いているのがよく分かるが、それよりもヒロインのボーイフレンドの家で繰り広げられる食卓での会話のチグハグさの方が面白いかもしれない。*

『つぐない』これは見た直後の前作『プライドと偏見』には劣るかなという感想だったが、しばらくしてじわじわと効いてくる。ラストなど細かい不満もあるが、後から考えれば意味深なオープニングショット、前半は羅生門的展開を交えてミステリーとして楽しめ、中盤の長回しと現実と幻想が交じり合った後半という構成は言うまでもなく面白い。俳優陣ではキーラ・ナイトレイとジェームズ・マカヴォイの相性の良さ、シアーシャ・ローナンのイノセントながらも残酷な表情、アンソニー・ミンゲラとヴァネッサ・レッドグレイヴを収めたラストと的確な配置だ。やや過剰ながらもタイプライターの音を効果的に使った音楽も忘れられない。

『ノーカントリー』コーエン兄弟の作風は大雑把に言ってシリアスかコメディかだが(もちろん一つの作品にどちらの要素も入っている)、これは人がたくさん死ぬシリアス作品。やればできる子のジョシュ・ブローリンが少し選択を間違えたところから話が転がってゆく様子と、冷徹な殺し屋シガーの仕事振りが面白い。原作と比べるとトミー・リー・ジョーンズ演じる保安官の優秀さが分かりづらくやや損をしている気もする。原作者コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』の映画化も楽しみだ。

『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』カナダ人女優サラ・ポーリーの監督デビュー作、画面に映る景色から音楽までカナダづくし。そんな中で監督自ら頼んで出演してもらったジュリー・クリスティの姿が美しい。初監督でアルツハイマー型認知症という重い題材を選ぶサラ・ポーリーだけあって男女関係についての見方もシビアで、男としてはきつく感じることもしばしば。あー、ヘルプレス、ヘルプレス、ヘルプレス。*

『WALL・E/ウォーリー』直接的な理由は『ハロー・ドーリー!』の映像使用許可が出たためだろうが、アニメの中に実写映像が混ざっている。これによって実写(過去の人間)とアニメ(未来の人間)との対比が要となっていている。セリフがほとんどない前半も面白いが、人間がロボットにフィジカルなコミュニケーションの大切さを学ぶ後半の方が面白い。*

『アイアンマン』2008年娯楽系では一番俳優たちが楽しそうな映画。プレイボーイ若社長を演じるロバート・ダウニー・Jrは余裕裕。グウィネス・パルトローがきれいに撮られている映画も久しぶり。テレンス・ハワードのアイアンマンを羨む表情と、ジェフ・ブリッジスの楽しそうな悪役ぶり。これは監督のジョン・ファヴローが俳優出身というのが大きいと思う。あと、日本では軍需産業が兵器生産をやめることの重大性がうまく伝わっていない気がする。これはトニー・スタークの軽さが一因だろう(そう感じるとしたらロバート・ダウニー・Jrの演技がうまいからなのが)。

『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』『サボテン・ブラザース』系勘違いされる映画としては『ザ・マジックアワー』よりも、戦争映画の戦闘場面としては『レッドクリフ Part I』のそれよりも出来がいい。つまり現時点で、監督ベン・スティラーの演出力は三谷幸喜やジョン・ウーよりも上ということだ。ただしグロ場面が多いので一般人にはお勧めできない。怪演と言っていいロバート・ダウニー・Jrとトム・クルーズの陰に隠れてジャック・ブラックが目立たないのが残念だが、ジェイ・バルチェルやブランドン・T・ジャクソンと言った若手の今後に期待できる。

『ミラクル7号』日本では良くも悪くも『少林サッカー』だけで語られるチャウ・シンチーだが、役者としては一歩引いたこの作品では貧乏ネタを中心とした下品なギャグも多いものの、事前の予想をはるかに上回る出来となっている。簡単に言えば前半は『ドラえもん』と『E.T.』、後半は受難劇だ。メーンの子役の性別が役と入れ替わっているのは少年の吹替えを女性の声優が担当する日本のアニメに対するオマージュか?この映画の吹替えは『クレヨンしんちゃん』と『ドラえもん』を中心としたキャスティングになっているのも素晴らしい。

『寝取られ男のラブ♂バカンス』毎年1本は入れているラブコメ、今年はこれ。順位は低めだが結構気に入っている。男女×主演助演と4人のキャラクターがよく書けているし、それぞれが意外な一面を見せてくれるのもポイントが高い。サラ・マーシャル(クリステン・ベル)の存在感の軽さも捨てがたいが、やはり脚本も担当したジェイソン・シーゲル演じるピーターの情けなさと、ラッセル・ブランド演じるアルダス・スノーを気持ち悪さが最高。ラスト近くでは色々なことが次々に起こるのに、それをサラッと見せるところも好みだ。*

『JUNO ジュノ』上にも書いたように、ジュノの台詞回しが鼻につくなど欠点も見えるのだが、大人になりきれないマークとヴァネッサ夫婦の成長記として見ると、脚本家と監督の男女関係に対する感覚の違いも感じられて面白い*

『4ヶ月、3週と2日』
2007年映画ベスト10のときに東欧が舞台の映画が増えるだろうと書いたが、これは英米が舞台の映画を想定していたので、ルーマニアの監督が自国の歴史を描いたこの2007年のカンヌ国際映画祭パルムドールは念頭においてなかった。

これが長編二作目の40歳というクリスティアン・ムンジウの力量はかなりのものがある。ワンショットを基調とした映像、現実感にこだわった台詞や緊張感たっぷりの演出のどちらも素晴らしい。監督の頭の中できちんと完成図ができていないとこうは撮れない。最近長回しで話題になった映画というと『トゥモロー・ワールド』があったが、これを観るとあちらがテクニックのためのテクニックに見えてしまう。この映画にもそれを感じる箇所がないといえば嘘になるし(長めの会話でウトウトしたと告白しておく)、さすがに夜が暗すぎるなど気になる点はあるが大した問題ではない。

これと似ている映画というと題材も共通している『ヴェラ・ドレイク』だろう。マイク・リーは役者に自分の台詞以外の台詞を教えないことでリアリティを出すが、それによって生まれた演技の印象は個人よりはアンサンブルの素晴らしさが目立つ。こちらは登場人物が少ないこともあって個人の良さが際立っているように思う。

メーンの3人の俳優はどれも魅力的だが、とくに主役のオティリアを演じるアナマリア・マリンカが素晴らしい。すでにイギリスで活躍しているので、姿を見る機会も増えるだろう。オティリアとガビツァの関係は日常・非日常、主・従がころころ変わるような快感を味わえる。ローラ・ヴァシリウ演じるか弱いガビツァは観ている側をイライラとさせるが、それは彼女の演技がよく出来ている証拠だ。わがまま言い放題の姿やコトが済んだ後でのあっけらかんとした表情などは見事(これは卒業パーティー中にトイレで出産して、またパーティーに戻った女性の話を思い出した)。同じことはベベ役のヴラド・イヴァノフにも言える。こちらは文字通り最高に嫌な奴だ。彼の言動は立場的には真逆だがいかにも公務員的なホテルのスタッフと似ている。この辺りもうまい。

日本人から見て一番の謎なのはオティリアがどうしてガビツァにあんなに尽くすかだろう。監督によるとすでに倫理観を失っていた状態だそうだが、この映画ではその背景については直接描いていない。しかしそれでこの映画の価値が下がることはない。この映画は中絶の是非を問うような映画ではなく、国民があのような状況にまで追い込まれていた斜陽のルーマニアを描き、どこかおかしくなった国の中で必死に生きようとする人々を切り取った映画だからだ。それ意味ではこの映画はいわゆる社会派映画ではなければ、女性の友情をメーンにした映画でもない。

それでもいくつか理由を考えてみる。
(1)オティリアはガビツァに大きな借りがある
あの恋人はかつてガビツァの恋人だった。子供の父親はオティリアの近くにいる人である。とにかく色々と世話になった。
(2)オティリアはガビツァに大きな貸しを作ろうとしている
ことわざで言えば情けは人のためならずということになる。たとえ法を犯しても正しいことをしていると信じているオティリアは、このような行為をしていればいつかは社会のためになると信じている。オティリアは自分が中絶をしなくてはいけなくなったときにはガビツァに頼ると言っているが、彼女が直接助けてくれなくても彼女にした行為が噂で広まれば誰かが助けてくれるだろう。
(3)体制への反抗
これは映画評等で一番多い意見である。映画は共産政権末期の空気を反映し活気は無く、夜は文字通りに暗いなど国力が落ちているのは明らかだ(ちなみに冒頭の輸入商品を売りさばく風景は、アメリカ映画ならドラックの売買になる)。その一方で、ホテルのスタッフとのやり取りはいかにも共産国家らしいものである。途中の恋人の家における誕生パーティーの華やかさは見栄を感じてかえって寂しさすら漂う。そしてパンフレットの監督のインタビューにあるように、バスの中でオティリアがキップを譲ってもらうと言う場面は、車掌のお役所仕事に対する小さな抵抗と言えそうだ。オティリアがガビツァに尽くすのもそんな小さな抵抗の積み重ねなのかもしれない。
個人的には(2)をベースに(3)と勝手に解釈している。

馴染みの薄い国からこんなに凄い映画が来るとは映画というメディアの面白いところで、音楽だといくつかのクッションが必要になるのでこうはいかないのではないか。家でパンフレットを眺めながらガビツァの名前がGabitaとなっていることに気付き、IMDbをチェックするとGabriela 'Gabita' Dragutとなっていた。彼女の名前は天使ガブリエルに由来する名前なのか。(2008年 03月 05日)

『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』
本年度アカデミー賞に主演女優(ジュリー・クリスティ)と脚色(サラ・ポーリー)がノミネートされた本作はそのサラ・ポーリーの長編監督デビュー作。30 前にして結婚44年の夫婦のアルツハイマーという題材を選ぶあたり、変に老成した感覚を持った人なのかと思ったが、実際に見てみるとある愛の形を描いたという感じでだった。題材からして単純なハッピーエンドにはならいと監督は言っているが、そこは十分に納得できるものになっていて不自然さは無い。ただ気になったのは監督の男性に対する視線が厳しいこと、元大学教授グラント(ゴードン・ピンセント)は愚かだし、入所した施設でフィオーナ(ジュリー・クリスティ)が夫のことを忘れて好意を持つことになる男性オーブリーも情けなく描かれており、オーブリーの息子にいたっては金で物事を解決するようなタイプ。これに実況男と、ましな男がほとんどいない。こちらとしては"男って本当に情けない生き物よね"と説教されているようで恐縮するしかない。老人介護施設のスタッフで登場するのも女性ばかり、子役出身の人なので当時から汚い大人を色々と見てきた反動が出たのではないかと、邪推してしまう。

フィオーナは施設に入る直前に教授時代のグラントと学生との浮気を思い出す。彼は妻の症状や行動がそんな自分への復讐ではないかとも感じる。もちろんグラントのフィオーナへの愛は愚かであったり、わがままであったりしても、それは彼なりの愛情表現であり一概に否定できるものではない。彼は妻にとって最高の夫ではないが、彼なりの愚直な愛し方で妻のことを愛しているからこそ、妻のことでこんなにも悩むのだ。それを浮かび上がらせるためには、もっと彼への暖かい視線があるか、他のまともな男性を描いておいた方が有効的だったはずだ。やや気になったのはグラントとフィオーナの年の差、かなり離れているのにそれを感じさせないのはやはりグラントの子供っぽさが画面から出ているからか。

ジュリー・クリスティは1年という時間の経過の中で凛とした姿から疲れきった表情まで見せるが、あのような施設で(元気を出すためにも)化粧をしてあげないのかが気になった。それが可能だとしても本人が断ったという設定なのだろう。それからグラントの回想に出てくる若き日のフィオーナが秀逸。目が印象的なジュリー・クリスティの若い頃とサラ・ポーリー(ついでにアンナ・カリーナ)を混ぜたようなルックスで、キャスティングの理由を見たような気がする。施設の構造が自然光を取り入れるようになっているがこれはヤコブの梯子のようにも見える。その光はたしかに美しいが出てくる回数が多いのでややくどい。冬の雪が白いと言うよりは青白い風景、エンディングに流れる k.d.ラングによる"ヘルプレス"(これが収録されている「ヒムズ・オブ・ザ・フォーティーナインス・パラレル」は同郷のミュージシャンによる楽曲のカバー集。意外性があるのはジェーン・シベリーくらいだが、逆に言うとじっくりと有名曲が歌われたアルバム)、音楽で参加しているヴァイオリニストのヒュー・マーシュ(ロリーナ・マッケニット、ブルース・コバーン)、なるほどカナダだ。(2008年 06月 05日)

『WALL-E/ウォーリー』
ピクサー・スタジオといえばある時期までは右肩上がりの成績を残してきたが、ここ数作は下降気味か横ばい状態にある。もちろんどこまでも右肩上がりになることはないし、作品のクオリティが下がっているわけではない(ピクサーの顔、ジョン・ラセターが監督した「カーズ」はスローライフと車という食い合わせが悪く、評判はあまり良くないようだが、好きなものを作ったという勢いがあって憎めない)。ただそれが「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バードをスタジオに迎えた時期と重なるのは偶然ではない。つまりそれは"男の子"から"少年"へという作風の変化である(もちろん「アイアン・ジャイアント」でのブラッド・バードの作風は今より男の子っぽい)。この考え方だと「ウォーリー」は男の子が少し年上の女性と出会う物語になる。最初の予告を見たときにはウォーリーは萌えキャラなので女の子っぽいと思ったが、新しい予告でイヴを見るとそういう考えはなくなった。

予告編のナレーションではウォーリーはシステムエラーを起こして感情が芽生えたと言っているが、字幕やナレーションでそれを言及することはない。なにせ前半はほとんどセリフはないのだから。ウォーリーの感情はイヴや宇宙船にいるロボットにある感情よりやや劣る程度に感じる。何百年も放置されていたウォーリーの進化は実は凄いのかもしれない。さて宇宙船に回収されたイヴを追って船内に入り込むウォーリーだが、そこの人間はブクブクと太って、自分の足すら使わず機械に頼り、遊びもヴァーチャルなものしかしない。これはSFにはわりとある設定だが(行き着くところまで行くと脳みそだけにまでなる)、実際にこうなる可能性は低いと思う。なぜなら数パーセントの人間は楽をすることよりも痛みを感じることに価値を見出すはず。これはSM趣味と言うのではなく風呂は熱いほうがいいや辛いものがやめられないというのと同じことだ。彼らはブクブクと太ることをよしとしない、そしてスマートなままの人がいればその人に憧れて努力する人も多いと思うのだがどうだろう。

なりよりここで重要なのはフィジカルなコミュニケーションにある、船内の人間たちが直接隣の人と触れ合ったときの感動と感情に注目したい。なにせこの映画ではロボットのウォーリーが手をつなぐことに憧れ、人間はヴァーチャルなコミュニケーションしかしてこなかったのだから、いわばロボットに触発されてその感覚を思い出す。"コンピューターに向かいながら仕事している人間にそんなこと言われたくないよ"と思う人もいるかもしれないが、そんな作り手だから何が大切かを理解していると思いたい(ちなみにピクサー社ではゲームをできるようなスペースだけでなく、運動設備も完備しているとのこと)。

手と手が触れ合うSF映画といえば深夜放送で見た「バーバレラ」を思い出す。男女が互いの手を合わせることで性行為と同じ効果が得られたはずだが、細部は覚えていない。もちろんこの映画でウォーリーとイヴが手を繋ぐ場面はエロティックではないが感動的だ。「2001年宇宙の旅」のオマージュと言えるコンピューターの反乱を経てウォーリーの復活で終わるこの物語はウォーリーの受難劇と考えれば分かりやすい。お気に入りのシーンは宇宙遊泳(科学的に間違っていても構わない)、脇役と言える宇宙船にいるロボットたちも実は細かく設定されていて、追いかけっこの場面など彼らの行動も面白い。主題歌はトーマス・ニューマンとピーター・ガブリエルの「ベイブ/都会へ行く」主題歌コンビ、この曲やウォーリーお気に入りの「ハロー・ドーリー!」挿入歌にも字幕をつけて欲しかった。(2008年 12月 15日)

『寝取られ男のラブ♂バカンス』
まあこの原題「FORGETTING SARAH MARSHALL」からまったく離れた邦題はどうかと思う。セス・ローゲンがそうだったように俳優に脚本を書かせるジャド・アパトー、この「サラ・マーシャル」の脚本は主演のジェイソン・シーゲルが担当している。色々な実体験をベースにしているのだろう。「ノックトアップ」よりはポイントが絞れていて無駄が無い。シーゲル演じるピーターはテレビ番組の音楽担当をするミュージシャン、テレビ音楽と言っても日本のミュージシャンが自虐的に言う”劇伴”というやつだ。つまり自分の仕事にあまり自信を持っていない。早々にピーターを振るテレビ女優サラ・マーシャルにクリステン・ベル。本人も「ヒーローズ」「ヴェロニカ・マーズ」等のテレビを中心に活躍する彼女にやらせる辺りは皮肉があっていい。キャサリン・ハイグルとは対照的に顔のパーツが薄味だからか、女子高生からこんな役までこなしても違和感はないのがベルの不思議な魅力だ。

ラブコメで主人公がブサイクと言うのはたまにはある、この映画のピーターのルックスがイマイチで情けない表情している。そう来たらライバルはハンサムか金持ちだが性格の悪い男と言うのがラブコメによくあるパターンだ。しかしサラの新恋人はハンサムではなく、ピーターを上回る気持ち悪い男というのがこの映画の一番面白いところ。このイギリス出身のロック・スター、アルダス・スノーを演じるのは本人もイギリス出身コメディアン、ラッセル・ブランド。「パイレーツ・オブ・カリビアン」の新作でジャック・スパロウの弟を演じるなんて話もあった。アルダスはイメージとしてはプリンスかと思ったりもしたが、現状で似ているのはデヴェンドラ・バンハートあたりかもしれない。

ピーターは失恋直後にせっせとナンパや女遊びし、コトの最中にサラを思い出して泣いたりする。彼の気持ち悪さを強調すると同時に別れた後も恋愛に対して消極的ではないと示すのに成功している。これによって傷心旅行でハワイに行ってからのレイチェル(ミラ・クニス)と仲良くしてもすんなりと入っていける。ハワイでサラとアルダスのカップルに出会ってしまってからの様々な事には驚かされる。始めはサラに未練たらたらだったピーターが、レイチェルと知り合い、サラが再び彼になびく。一方サラは番組の打ち切り、アルダスと破局等々が目まぐるしく展開する。ピーターが自分のやりたいパペット・ミュージカル「ドラキュラ」を作り上げる切っ掛けを与えるのは誰なのか、ピーターの行動を見ることから分かるサラの深層心理までが覗けるものとなっている。この辺りの脚本は実によくできていて、「ノックトアップ」より好みだ。

二本ともにセックス・シーンはたっぷり。でも女優のバストトップは拝めない(あっ、ひとりいるか)。(2008年 12月 28日)

『JUNO ジュノ』
本年度アカデミー賞脚本賞受賞作。日本のコピーは"そのつもり。ジュノ16歳。いちばん大人。"、これはいいところをついている。これは大人のつもりの少女と大人になりきれない大人の物語だ。中でも里親に出す夫婦がその代表、「キングダム/見えざる敵」でも共演していたジェニファー・ガーナーとジェイソン・ベイトマン。「キングダム」で拉致されていたベイトマンはここでも情けない役。アクション女優のイメージからすると意外な感じのガーナーだが、実生活での母親経験が生きているようで一安心。ということでここには強い大人は登場しない。父親(「スパイダーマン」シリーズの怒りっぽいデイリー・ビューグルの彼!)は娘の妊娠を知っても素っ気ないし、義理の母親(アリソン・ジャネイ)は「ヘアスプレー」に続いて真面目な母親だがやはりジュノとは距離感を置いている。この二人はややキャラクターが似通ってしまったのが残念、継母がジュノに対して意外な愛情を見せるので、父親の方に一工夫ほしかった。
この映画は少女の妊娠に関する話だが、「ニューズウィーク日本版」2007年12月19日号の"ハリウッドは中絶反対派"によると1982年の「初体験/リッジモント・ハイ」(ちなみに同作の脚本はキャメロン・クロウ)以来とある。非ハリウッド映画ならあるのもしれないし、記事にも脇役ならあるとなっている。表面的にはリベラルなハリウッドも商売にマイナスになるようなことは避けたいらしい(その前に戦争映画でこれまで何人殺してきたことか!)。この映画も保守派から歓迎されている。しかしジュノは初めに中絶クリニックに行くが"赤ちゃんに爪が生えている"という抗議を聞いて取りやめる(これはジュノが変わり者のようでいて人に流れやすい性格であることも示している)。ここで重要なのは選択の結果ではなく選択肢があること。ジェイソン・ライトマン監督やエレン・ペイジもキネマ旬報の記事で同様の発言をしている。まあ脚本を書いたディアブロ・コディの真意はともかく、ジュノが出産を決意しないと物語がスタートしないのでこの話題はこの辺でいいだろう。

さてこの映画の最大の魅力はエレン・ペイジとディアブロ・コディの脚本にあるわけだが、「ハードキャンディー」に関してはこのブログの最初期に取り上げた。今見ると随分あっさりした感想になっている。ちなみに「ジュノ」のオープニングで「ハードキャンディー」っぽい服装なのが笑える。年間トップ10では、その年の7位の映画としては"ここは若いスタッフ(デヴィッド・スレイド、モリー・ナイマン等)と若い役者(エレン・ペイジ)の今後に期待。"とコメントしている。ということでエレン・ペイジにとってこのしっかりしているようでどこかが欠けている生意気な女子高生役はお手の物、時々殴りたくなるほどだ。ジュノを取り巻く環境で気になったのは、彼女のホラー、70年代音楽好きという音楽趣味について、これを彼女に教え込む親戚や近所の人がいた方がよかったのではないか、ということで勝手にジャック・ブラックかドリュー・バリモアの存在を補完しながら見ていた。どうしてジュノとチアリーダーが親友なのか、一応体育会系のポーリーはかっこいいかそれとも違うのかは気にならないでもないが、気にしないことにした。

女子高生が主人公なのに学園生活があまり出てこないこの映画ではポーリーとリア以外はすべて脇役だが、ジュノがポーリーに付き合えばと言っていたカトリーナの微妙な存在感がまたいい。プロムに関しても必要以上に突っ込まないのが効果的だ。チアリーダーやスケート選手といった花形スポーツ選手について斜に構えた視線があるのも面白い。この映画で一番辛い立場にあるのは里親夫婦だろう。特に旦那の方は脚本家の"お前なんか、子供だ!"とういう声が聞こえてきそうだ。それを演じるジェイソン・ベイトマンも情けなくていい。一方監督のからの仕打ちを受けるのは妻の方だ。完璧を目指すあまりに、自分や周りに余計なプレッシャーをかける。彼女の登場シーンは悪意に満ちている。この映画はこの夫婦の視点で見るとまた違った面白さがあるはずだ。

「ニューズウィーク」の記事はこの映画が保守的に見えても、すでに古い形の家族は無くなっていて、血のつながらない親や養子が当たり前になっている現代を描いていると結ぶ。なるほどこの映画を見て、有名人が養子を迎える理由が少し分かった気がする。ちなみにエミー・ロッサムは母子家庭、MDbによると彼女のいとこは有名デザイナー、ヴェラ・ウォンの養女だそうだ。(2008年06月15日)
(追記)これは大きな間違いでした。Wikipediaを元に書いたとはいえ、よく確認せずにこの感想に合わせて都合のいい設定を作り上げてしまったようです。訂正してこのことについて1年以上気付かなかったことをお詫びさせていただきます。情報を総合するとヴェラ・ウォンの結婚相手アーサー・ベッカーとエミーがいとこというのが一番確かそうです(姪と書いてあることもあり)。09年コスチューム・インスティテュート・ガラ時のつぶやき。(2009年9月)
(さらに追記)上の勘違いでIMDbにはやはりいとこがヴェラの娘になっています。現時点で調べた限りはアーサー・ベッカーがいとこ、娘セシリアがいとこの順で信憑性が高ということにしておきます(200911月)

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