DVD情報
2006/10/06発売
ポセイドン 特別版
ポセイドン 特別版 (2枚組) 税込3,980円 品番:DLW83012
ポセイドン
ポセイドン (1枚組)税込2,980円 品番:DL83013(映像特典はオリジナル劇場予告編のみ)
本編:約98分
2枚組映像特典(約75分)
メイキング(23分)
さかさまの世界(10分)
“ポセイドン”体験記(12分)
巨大波 “ローグ・ウェーブ”(28分)
オリジナル劇場予告編

字幕翻訳:藤澤睦実(劇場版から変更)
吹替翻訳:久保喜昭
吹替配役
ロバート・ラムジー/カート・ラッセル(堀勝之祐)
ディラン・ジョーンズ/ジョシュ・ルーカス(咲野俊介)
ジェニファー・ラムジー/エミー・ロッサム(宮島依里)
リチャード・ネルソン/リチャード・ドレイファス(石波義人)
マギー・ジェームズ/ジャシンダ・バレット(安藤麻吹)
クリスチャン/マイク・ボーゲル(坂詰貴之)

サウンドトラック紹介
POSEIDON_OST
2006 A&M B0006811-02
1 Won't Let You Fall (Performed By Fergie) (04:36)
2 Bailamos (Performed By Fergie) (03:10)
3 Postales (Performed By Federico Aubelle) (04:09)
4 The Poseidon (03:18)
5 Wave (04:37)
6 A Map and a Plan (02:29)
7 Fire Dive (02:48)
8 Claustrophobia (07:09)
9 Drowning (03:04)
10 Don't Look Down (03:43)
11 Escape (02:41)

(1)〜(3)は歌物、映画でのオーダーは(3)(2)(1)
(1)(2)はBlack Eyed PeasのFergieが劇中で歌う曲。
(1)はバラード、(2)は少しラテンっぽいパーティー・ソング。
(3)はゴータン・プロジェクトっぽい曲で、ロビーが映るときにかかる。

残りはクラウス・バデルトのスコアもの。
(4)The Poseidonは予告編でも使われていたメーンテーマ
(5)The Wave はいかにも大波が押し寄せると言った曲調
(8)Claustrophobiaは中盤がドラマチック
(9)Drowning は恐怖心を煽る
と言ったところが聞き物。
Klaus Badelt unofficial FAN PAGE

Black Eyed Peas_Monkey Business
Black Eyed Peas
Monkey Business
Federico Aubelle_Gran Hotel Buenos Aires
Federico Aubelle
Gran Hotel Buenos Aires

パンフレット情報(600円)
・イントロダクション
・ストーリー
・キャスト&インタビュー
・キャスト・プロフィール
・世界一の豪華船ポセイドン号へようこそ
・転覆したポセイドンからアメリカへ帰還できる英雄は果たして誰か?(新田隆男)
・監督プロフィール&インタビュー
・プロダクション・ノート
 ○映画史上最高の技術によって生み出された船と波
 *いかに船と波は作り出されたか
 *脅威のオープニング・ショット
 *監督の美学を実現した新しいハードウェア
 ○鉄筋、コンクリート、そして大量の水
 *34万リットルの水にのまれるダンスホール
 *往年のハリウッド映画以来の大規模なセット
 *困難を極めた水中撮影
 ○逆さまの世界の作り方
 *逆さまの世界の検証
 *方向感覚を失う不思議な世界
ローグ・ウェーブ
スタッフ・プロフィール

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『ポセイドン』の感想(ネタバレしています)
昨今、邦画・洋画に限らずリメイク、続編ブームだが個人的には広い意味での原作付きの映画と解釈しているので気にしない。ただ気になるのは人物設定についてである。ティム・バートンは『チャーリーとチョコレート工場(2005)』 (『夢のチョコレート工場(1971)』)の主人公は色々考えてみたが やはり白人少年になったと言っている。それでもチャーリーは黒人のお店でチョコレートを買っている。 近年、一番がっかりしたメイクと言えば『ソラリス(2002)』(『惑星ソラリス(1972)』)だった。映画の細部は忘れてもこの映画のキャラクターの改変にがっかりしたことだけはよく覚えている。元の映画をアメリカに持ってくるだけで違和感が出るのは分かっていたことだが実際に観ると予想以上だった。

さて今回の『ポセイドン(2006)』(『ポセイドン・アドベンチャー(1972)』)の主要メンバーは白人だが船長は黒人、船内で歌うのはヒップホップ・グループBlack Eyed Peas のFergie。密航を試みる女性と彼女を導くウェイターはラテン系。これが政治的に正しいレベルかどうかは分からないが、まずは想定の範囲内。

このリメイク製作の話を聞いたときに、72年度版を知っている人はあのスコット牧師を誰が演るのだろうと思ったはず。ところが出てきたのは元ニューヨーク市長、ギャンブラー、自殺志願の男だった。結末を読まれないためにキャラクターを総入れ替えするのはいいとし、ヒーローらしい男は見当たらない。

しかしその前に『ポセイドン・アドベンチャー』にもポール・ギャリコの原作からの変更点がある。原作のスコットは変わった牧師であっても大学フットボールの有名選手であり基本的にはヒーローである。彼の変わった説教も強い自信の表れと言ったほうがいいだろう。だからこそ叩き上げロゴ刑事のアンチ・ヒーローぶりと対比が際立つことになる。

これが映画になるとスコット牧師もややアンチ・ヒーロー寄りになっている。なんと言ってもスコット牧師を演じるのがジーン・ハックマンなのだから。1枚物のDVDに短いメイキングにFOX がアメリカン・ニュー・シネマに対抗してオールスター・キャスト映画を造ったと語っているが、そうは言ってもどこか前の時代の雰囲気が残っている。あの有名なスコット牧師の自己犠牲という行動がそう思わせるのだ。

実際に観てみるとキャラクターの描きこみはやはり物足りない。ロバート・ラムジー(カート・ラッセル)が元有名市長のというのはいいとして、並び立つディラン・ジョーンズ(ジョシュ・ルーカス)の職業がギャンブラーだというだけでは対立軸も生まれない。ここは市長を元刑事にしてギャンブラーも警察にお世話になったことがあるとでもした方が旧作との対比もできたし、面白かったに違いない。 リチャード・ネルソン(リチャード・ドレイファス)に関しては自殺志願の同性愛者という情報があった。確かに同性愛者らしい描写はあったような気がするが話にはほとんどかかわってこない。

ボール・ルームから逃げ出す理由にしてもディランの理由は単なるわがまま、ラムジーが娘を捜しに行くと言うのもあの場面では身勝手に見えてしまう。ラムジーとブラッドフォード船長(アンドレ・ブラウアー)とのやり取りもよくない。マルコ・バレンタイン(フレディ・ロドリゲス)の死に方は唐突で、もう少し引っ張るべきだろう。最年長のネルソンは終始元気だし、クリスチャン(マイク・ヴォーゲル)が足をけがしても普通に歩き、泳ぐ。以上が気になった点。

しかし、それを越えてしまえばノンストップ・パニック・ムービーが展開される。アクシデントと水の量は「海猿」比500%で迫ってくる。今回のポイントは水で、登場人物たちはほぼ全編に渡って濡れていて汚れている暇がないくらいだ。その極め付けがバランスタンクに水を溜めることによって次に進もうとする場面。

船内の映像はセット、ポセイドン号の外観はCGというのがこの映画の基本。このCGポセイドン号、オープニングのポセイドン号をとらえたショットは一年かけただけあって実に素晴らしい。しかし、ラスト前の沈没するポセイドン号のCGはそれと比べるとかなり落ちる。ここは「海猿」の勝ち。

最後にエミー・ロッサム演じるジェニファー・ラムジーについて、父親と恋人との間で揺れるというのは『オペラ座の怪人』のクリスティーヌと似ていないこともない。そしてまたもや結末は彼女が選択したものと言うよりはあの結果しかなかった。見終わってから振り返ってみると父親が昔話をする場面は中々良いのではないかと思う。(2006/5/18、5/22修正)

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『ポセイドン』を911と『宇宙戦争』から読み解いてみる
(両映画、および関連作品の結末等に触れている箇所があります)

911と『宇宙戦争』の不安感
『ポセイドン』を911以降の映画だと感じたのは役に関するに関するニュース見たときだった。元市長、元消防士、ゲイの老人、ギャンブラー。72年度版『ポセイドン・アドベンチャー』の牧師と刑事とは違い社会的地位は高くなく、有名な市長といっても現職ではない。そこからは911以降の映画には80年代のスタローン、シュワルツェネッガーのような強いヒーローはいらないという主張が感じられた。それと同時に、消防士というアメリカの民衆のヒーローを配役したとことで、そういった人こそが真のヒーローなのだという意味を持たせていると解釈した。

スティーブン・スピルバーグの『宇宙戦争(2005)』も911を強く意識した映画である。前触れこそあるものの宇宙人の攻撃は突然かつ強力で、ニューヨークの人にとってもそのような出来事だったというスピルバーグ流の解釈といえよう。トム・クルーズ演じる主人公のレイは科学者でも、マスコミ関係者でもなく、もちろん政治家でもない。映画はあくまでも巻き込まれた一般人の視点で描かれ、状況は最初と最後のモーガン・フリーマンのナレーションで少し説明される。観客は主人公たちの感じる不安や恐怖を感じながら映画を観ることになる。主人公の視点しかないので途中でいなくなった長男の行方は最後まで語られず、それにより観る側の不安感が増す(ここは『ポセイドン・アドベンチャー』の原作と似ている)。

ところでこの映画では72年度版や原作のように他の遭難者に遭遇していない。それは転覆とその後の爆発によって、あの一行以外は全滅したことを示唆している。

『ポセイドン』の方法論
『ポセイドン』では『宇宙戦争』からさらに進んだ方法論が取られている。ウォルフガング・ペーターゼン監督は「72年度版はは娯楽映画だったが、今作は現代のメタファーなんだ」と言う。ローゼン夫人やスコット牧師の最期を名場面だと思っている多くの人はこの発言に怒るだろう。その一方であの惨事に居合わせたら思い出話や口喧嘩をしている暇もなく、もっと緊迫感があるものだという監督の考えにも一理ある。

そして『ポセイドン』では72年度版の字幕による説明や『宇宙戦争』におけるナレーションさえも省いてしまった。大波の原因が地震によるものなのか、パンフレットにあるように突然に発生したものなのかも分からない。それによって劇中の人物たちだけでなく観客の不安も煽ることになる。とはいえ観客は不安感が増すというよりは説明不足から置いてきぼりを食らったと感じる。その意味ではこの映画は失敗している。

目の前で起こっていることこそがドラマだ(各人物の分析)
人間ドラマの部分が足りないといわれがちな登場人物たちだが、むしろ「広げた風呂敷をそのままにしている」点が問題である。なにか含みがありそうだが、それが表に出てこない。とはいっても登場人物たちがそれぞれに持っている背景は、それがサバイバルに必要がないのなら表れなくてもよい。ところで、ここで出てくる人々は豪華客船の乗客にしては何か欠けている人間が多く、明確な目的を持って船に乗り込んだのは病気の弟に会いに行くエレナくらいである。

*ロバート・ラムジー: 元ニューヨーク市長、元というからには辞めた理由があるはずだ。スキャンダル、汚職、離婚問題、政治に飽きた等々。娘との会話から市長を辞めてから少なくても5年程度は経っているのではないかと考えられる。

*ディラン・ジョーンズ: ラスヴェガスで稼ぐほどの腕はないギャンブラー。この映画で一番意味のない人物が彼ではないだろうか、淡々と課題をこなしてゆく男に観客はどう思い入れをすればいいというのだろうか。

*リチャード・ネルソン: 当初から同性愛者という情報が入っていたが、彼との別れ話をするなど、その設定自体は残っているようだ。自殺志願者だったが目の前の大波を見て生を再認識し、エレナに対する保護者のような接し方も理解できる。

*エレナ: パンフレットにあるようにこの人物が最も72年度版のキャラクターと比べやすい。ノニーのように恐怖で動けず、兄弟を思い、身近の人(マルコ)を失う。彼女がマルコと親しく、尚かつ直前死んだことは観客にしか分からない。それでも道を進むうちに彼はもう生きてはいないだろうと彼女には分かる。だからこそ彼女は弟と再会するために前に進む。そして72年度版でスコット牧師によって表れた宗教色は彼女のロザリオという形で登場する。十字架を粗末に扱った者は神が許さなかった。それが自分たちを助けるために使われたとしても。

*マギー・ジェイムズ: シングル・マザーが大晦日に子供と豪華客船という設定にかなり無理がある。
*コナー・ジェイムズ: 72年度版のように船に詳しいとか、乗組員と親しいといった描写はとくになく(パンフレットには船長が自分の椅子に座らせている写真がある)、守られるだけのお姫様キャラになっていて、むしろ足手まといである。原作では少年は行方不明になるが、さすがに映画でそれはない。

*船長: 彼が間抜けに見えるという人がいるようだが、船長があの場を締めていている。だからこそあの場から逃げようとするディランたちの行動の方が身勝手なものに見えてしまうのだ。船長は船の中では絶対権力者であり、ディランたちの行動を否定する彼はひどく冷たい人間に映ってしまう。

その前に、船長があそこにいてはだめだ。72年度版はパーサーが上に行くのを止める役割を担当していた。パーサー程度の地位の人間が言うことより、上に行く一行の方が理に適っているように見えたのだ。そしてスコットと船付きの牧師との会話が、前に進むことが出来る人間と守られることの運命というものを感じさせることになる。

やはり船長は操舵室にいて、この状況を嘆いてほしい。72年度版や原作では営利優先のために、バラスト不足というのがあった。そのために船が転覆しやすい。後に出てくるバラスト・タンクが出てくるがどう繋がるのだろう。

ボール・ルームに留まれと言った船長の考えは間違いだったのか?船の構造には詳しくないので細かいことは分からないが、転覆した時点でほとんど助からないのではないだろうか。素早く救助隊が到着したとして、あそこからどう救い出されるのか知りたいところだ。

あの場面でリーダーがすべきことはパニックを防ぐことと意見をまとめること。それはラムジーたちを追い出すことで実現する。上に行くことの困難さも考え合わせた結果なら彼は間違ったことをしていない。どちらを選択しても助かる可能性はほとんどないのだから。彼に出来ることは奇跡を祈ることだけだ。最期のときに船長に寄り添う歌手のグロリア、二人の関係は深かったと見るのが自然だろう。

では、どうすれば良かったか?
まずは人数が多すぎる。群像劇といっても6人くらいにとどめるべきではなかったか。あるいは人数はそのままで2家族にするという手もある。全員が家族である必要はない。親子と知り合いでいい。極限状態でいつもとは違う表情を見せればいい(原作には妻が夫に対して切れる場面がある)。

結論
以上、『ポセイドン』はパニック映画において新しい方法論を持ち込もうとしたがうまく機能しなかった作品である。もう少しうまい脚本家と組むべきだった。(2006/6/2,6/4)

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